285.おうちに帰るまでが遠足だぜ
「やーっと見つけたぜ。あんたがミカヴェルだな」
ブラジェイの声音は低く、鋭い刃のように部屋の空気を切り裂いた。その視線を受けた長髪の男──ミカヴェルは表情を崩さなかったが、赤髪の少年は端正な顔を大きく歪めた。
「ミカ……ヴェル?」
理解できないといった、戸惑う声。
そんな彼に向け、ユーリアスは冷たい眼差しのまま事務的に告げる。
「フィデル国の参謀軍師ミカヴェル・グランディオル。十一年前の抗争で捕縛したが逃走。行方知れずとなっていたが、こんなところに身を隠していたとはな」
それは、ストレイア兵士としての言葉だった。事実を織り交ぜながら、ストレイアの兵士が捕縛しにきたと思わせるための。
しかし赤髪の彼は、意味がわからないという様子のまま、さらに眉を寄せる。
「は? フィデル国の……参謀軍師?? なに言ってんだよ、こいつはただの嫌味な家庭教師だぜ!?」
「家庭教師なんかじゃあないさ。古くから続くグランディオル家は、ストレイア王国を滅ぼすために、ありとあらゆる知識を詰められた兵器を生み出している」
あえてこちらも真実を混ぜ込んだ。嘘で塗り固めるより、真実の断片を織り込む方が人を欺きやすい。
長年一緒に過ごしてきた家庭教師が敵国の軍師だと知らされた少年は、息を呑み、瞳を大きく揺らした。
少年は否定してくれと願うように、ミカヴェルを見つめる。だが当の本人は、へらりと無責任な笑みを浮かべるだけだった。
「はは、私など失敗作ですねぇ〜。十一年前の抗争でも、見事敗走させちゃいましたから」
「こうして自ら潜伏してんじゃねぇか。大成功だろうが、ミカヴェルさんよぉ」
ブラジェイが挑発的に笑う。対するミカヴェルは、ふいに眼鏡を押し上げ、その奥の瞳を鋭く光らせた。
「私を連れて行くのでしょう。覚悟はできています、抵抗はしませんよ。ですから、彼らには手を出さないでください。誰も私の正体など知らず、ただの親切心で行き倒れていた私を助けてくれただけですから」
「ああ、最初からそのつもりだ。逃げるなよ」
ユーリアスの冷たい言葉に、ミカヴェルは小さく頷く。
紅茶のカップを静かに置き、ゆったりと立ち上がったその所作には、諦念と覚悟がにじんでいた。
「やだ! ミカ、行っちゃうの!? どうして!?」
椅子から転げ出すように小さな少女が駆け寄り、ミカヴェルの腰に縋りついた。今にも泣き出しそうな声が、狭い室内を震わせる。
「シェリル……すみません。唐突の別れになっちゃいましたね」
「行っちゃヤダ! ミカ!!」
「やだよ、行くなよミカ……! 俺、ちゃんと勉強するから!」
今度はもう一人の幼き少年が涙声で叫ぶ。その必死の言葉に、ミカヴェルは苦笑を浮かべ、眉を下げた。
「勉強、自分でがんばってくださいね、キース。大丈夫、あなたならやれますから」
そう言って二人をしっかりと抱きしめる。その手つきは優しく、確かな情を感じさせるものだった。
やがてミカヴェルは視線を上げ、彼らの両親へと向き直る。
「今まで大変お世話になりました。ずっと騙していたこと、大変申し訳なく思っています」
「ミカ……」
「ミカちゃん……」
「あなた方と過ごしたこの十一年、本当に楽しかった。ありがとうございました」
十一年。
彼はストレイア王国を滅ぼす兵器を作りながら、敵国の人々と家族のように暮らしてきたのだ。
その事実を思うと、ティナの胸には複雑な痛みが広がった。
丁寧に頭を下げたミカヴェルは、ゆっくりとティナたちの方へ歩み出す。赤髪の少年とすれ違い、扉へ向かう一歩目を踏み出したその時──
「ミカ」
「なんだいカール」
カールと呼ばれた少年の瞳は、炎のように赤く燃えていた。苛立ちを隠そうともせず、鋭く睨みつける。
「俺は信じねぇぞ。俺たちを、騙してたなんて」
「言ったろう、カール。今日の仲間が、明日も仲間だとは限らないと」
その言葉に、なぜだかティナの胸の方が痛んだ。そして同時に確信をする。
ミカヴェルはやはり──フィデル国の人間として生きてきたのだと。
「だけど!! 俺はミカと暮らしたこの十一年を!! 無かったことにはできねぇよ!!」
「嬉しいですねぇ」
熱くなるカールとは対照的に、ミカヴェルはケラケラと肩を揺らして軽く笑う。
そこにいる全員がミカヴェルを理解できずにいると、彼はふっと視線をカールに絡めた。
「私も、このままこの家で一生過ごせるかと……ほんの少しだけ、夢を見ていました。カール。君と過ごした日々は、本当に楽しかった。本心だよ」
「……ミカ……」
ティナがちらりとブラジェイを見れば、彼はわずかに眉をひそめていた。
迎えに来なければ、ミカヴェルはこの場に留まるつもりだったのだろう。
フィデル国に戻らないという選択は、すなわち国への背反──場合によっては敵対を意味する。
その可能性を思うと背筋がゾッとした。
ミカヴェルという存在の得体の知れなさに、ティナの疑念が深まった瞬間でもあった。
「じゃあね、カール。たまには私を思い出しておくれ」
「んだよ、それ……死ぬみたいに言うんじゃねーよ!!」
その声に嬉しそうに笑ったミカヴェルは、振り返らずに扉へと向かう。
ティナたちは彼を囲み、連行するように見せかけながら家を出た。
「ミカ……マジかよ……ミカはなんにもしてねぇじゃねぇかよ!! 連れてくな!!」
家の中で叫ぶカールの声が、ティナたちの背後で響く。
彼は勢いよく外へ飛び出したかと思うと、大声でその名を呼んだ。
「ミカ!!」
その声に足を止め、ミカヴェルは振り返る。だが、その瞳は氷のように冷え切っていた。
「カール。私たちは敵だよ。情けはいらない」
短い言葉を残し、再び前を向く。
その背中はもう揺るがず、ティナたちは彼を囲み、森の奥へと歩みを進めた。
どれほど進んだだろうか。張り詰めていた空気がほんの少し緩み、ティナは肩で息を吐いた。
「なんとか任務成功だね」
「おいおい、おうちに帰るまでが遠足だぜ」
「俺たちが偽物だとばれる前に、早く国境を越えなくちゃな」
三人のやり取りを聞き、ミカヴェルは静かに目を細める。その表情には、すでに全てを理解した者の余裕が浮かんでいた。
「よぉ、初めましてだなミカヴェルさんよ。質問なら後でゆっくり受け付けてやる。今は急ぐぞ」
ブラジェイが軽口を叩くと、ミカヴェルはちらりと横目で彼を見、唇に笑みを刻む。
「まぁ大体のことはわかっていますよ。私を誰だと思ってるんです?」
「っけ。まぁいい。さっさとこの森を抜けて──」
言いかけた瞬間、ティナの背筋が粟立った。
風を裂く足音。近づく気配。鋭く研ぎ澄まされた感覚が、敵意を捉える。
「どうした、ティナ」
「来るよ。多分、さっきの赤毛の男の子!」
「……っち」
ブラジェイが舌打ちした瞬間、矢のように鋭い声が森に広がった。
「待て!!」
そこにいたのは、やはり先ほどの少年──カール。
手には、先ほどは持っていなかった剣が、固く握られていた。




