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あなたを忘れる方法を、私は知らない  作者: 長岡更紗
カルティカの涙〜フィデル国の異母姉編〜

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285/391

283.これ、どういう意味?

 ミカヴェルは十一年もの間、祖国フィデルを離れ、敵国ストレイア王国に身を潜めている。

 ブラジェイの言う通り、ミカヴェルに〝情を傾ける相手〟がいても、なんらおかしくはなかった。

 十一年という歳月は、人の心を変えるには十分すぎる。たとえそれが敵国の人間であったとしても、あり得ない話ではないのだ。


 ティナは胸の奥がざわつくのを覚えながら、そっとクロエの横顔を盗み見た。

 わずかに眉を下げた彼女は、しかし口元を吊り上げて笑みを形作っている。無理に笑おうとすればするほど、その表情には哀しみが滲む。


「あり得ない話じゃないね。いくらグランディオルと言っても、あの人だって一人の人間だ。ここ数年、連絡もなにもないのが……やはり、気にかかってね」


 言葉の終わりは、沈む石のように重たく落ちていった。

 クロエの苦渋がひときわ濃く伝わり、ティナは同じように眉を下げて胸を痛める。


 執務室の空気は、誰の言葉も続かず沈黙に押し包まれた。紙とインクの匂いがやけに際立って、窓からの光さえ鈍く感じられる。

 クロエの視線は遠く、今は目の前の三人を見てはいない。彼女の瞳に宿っているのは、五聖の顔ではなく、一人の女としての揺らぎだった。


「クロエ……」


 ティナが思わず呼びかけると、クロエははっと小さく瞬きをして、我に返る。わざと明るさを装った声が室内に響いた。


「まあ、今さら情けをかけてどうこうって話じゃないさ。大事なのは、あの人がストレイアでなにをしているのか、ってことだ」

「そいつぁ確かにな」


 ブラジェイは分厚い腕を組み、背もたれへと重たげに体を預ける。椅子が軋む音が、不安を煽るように響いた。


「けどよ、十一年だぜ? もしストレイアの連中と手ぇ組んでんだとしたら……敵に回るのは厄介すぎる」


 その言葉に呼応するように、ユーリアスの研ぎ澄まされた声が続く。


「味方であるなら心強いが、裏切られればそれこそ致命傷だな」


 クロエは二人の言葉を受け止め、小さく頷くと、机の上に一枚の封書を置いた。


「これが、最後に届いた手紙だ。三年前のものだよ。場所は明かされていないが、これまでの文面からして、ストレイアの奥地だろう」


 ティナは目を丸くし、身を乗り出す。


「見てもいい?」

「ああ。構わないよ」


 両手で受け取った紙をそっと広げる。

 黄ばんだ紙は折り目が破れそうに弱り、長く大事にされてきたことを物語っていた。クロエが何度も目を通したのだろう。その古びた手触りが、三年前の時の隔たりをいっそう濃く感じさせた。

 横からブラジェイとユーリアスが覗き込む。手紙の文はこう綴られていた。


『森の中は快適だ。

 芽吹いた種は、静かに牙を研いでいる。

 あと二、三年もすれば、狩人の求める刃となるだろう。

 この快適な生活とも、やがて別れねばならない』


 詩のような調子。意味を掴ませない言葉。

 ティナは黙読を終えると、首を傾げた。


「……なんか詩みたい。これ、どういう意味?」


 ブラジェイは鼻を鳴らし、嘲るように口角を上げる。


「はっ、牙だの狩人だの……気取った言い回しだな。詩人かよ。森で狩人ごっこしてるってことかぁ?」


 だが、ユーリアスだけは眉を深く寄せ、目を伏せたまま手紙の字面を凝視する。


「……いや、妙だな。言葉を選びすぎている。普通の生活の報告にしては、不自然だ」


 クロエは黙って三人のやりとりを聞き、そっと封書の角を指先で撫でた。

 まつ毛は伏せられ、思いを馳せるように呟く。


「……あの人らしいよ。遠回しで、肝心なことは一つも書いてない」


 淡々とした声の奥に、張り詰めた色が滲んでいた。

 ティナはむうっと口を尖らせるようにして、手紙の文面に食ってかかる。


「確かに、種が牙を研ぐっておかしいよね」


 クロエはしばし目を閉じ、呼吸を整える。そして慎重に言葉を紡ぎ始めた。


「……これはおそらく、なにかを作るか育てるかしているんだ。兵か……兵器か。ストレイア王国内で、ストレイアの力を削ぐためにね」


 緊迫が走る。三人の視線がクロエに集中する。

 彼女は一息を吸い、続けざまに口を開いた。


「おそらく……人だ。ミカヴェルは……いや、グランディオルは昔から、ストレイア王国を滅ぼすために、ありとあらゆる知識を詰めた兵器(・・)を生み出すことを得意としている」


 人を兵器と呼ぶ意味を呑み込めず、ティナは首を捻らせる。


「えーと、つまり……敵国の人間に知識を授けているってこと?」

「ああ、そういうことだね」

「相手に知識を植え付けんのか? それがどうして、人間兵器になるってんだよ」


 ブラジェイの疑問ももっともだった。だがクロエはわずかに目を伏せるだけで、答えを与えない。


「それは、グランディオルの者にしかわからないよ。ただ……十一年もかけて作られた人間兵器は、ストレイアにとっては脅威となるはずなんだ。けれど同時に──」

「ミカヴェルが戻らなかった場合、その脅威を向けられるのは、俺たちフィデル国の方だってことか」


 ユーリアスの冷静な断言。クロエは渋い顔をしながら、頷くしかなかった。


「おいおい、やべぇじゃねぇか。三年前の時点で二、三年ってんなら、今ごろはもう完成してんだろ?」

「そのはずだ。なのに、ミカヴェルが帰ってくる気配はないんだよ」


 クロエはそう言って、まるで縋るようにブラジェイとユーリアスを交互に見やった。


「……つまり、俺たちに行けということか」


 ユーリアスの表情は固く、視線は鋭い。クロエは正面からその眼差しを受け止め、強く頷いた。


「ああ。それを頼むために、今日は集まってもらったのさ」


 声音にはかすかな震えがあったが、覚悟の色が滲んでいた。


「なんでぇ、話は単純じゃねぇか。見つけてぶん殴ってでも連れ帰りゃあいいんだろ?」

「単純に済めばいいがな」


 難しい顔をしたユーリアスの横で、ティナがシュピッと勢いよく手を挙げる。


「もちろん、私も行くよ!」


 ティナが当然のようにそう言うと、ブラジェイは眉を顰めた。


「却下だ。おめぇは小うるせぇから連れて行きたくねぇ」


 ブラジェイの言い草に、ティナは思わず頬を膨らませる。


「なによそれ! 私だって役に立つもん!」

「ほんとかよ……」


 腰に手を当てて胸を張るティナに対し、ブラジェイは腕を組んだまま視線を逸らす。完全に取り合おうとしない態度だ。

 だが、そこでクロエがふっと笑みを浮かべ、二人の間に声を差し挟んだ。


「連れて行っておあげ。ティナは言い出したら聞かないこと、あんたが一番よく知ってるだろう?」


 押し殺すような沈黙が数秒、ブラジェイから漏れたのは長い溜め息だった。


「はぁぁ、しゃーねぇな。勝手にしろ」

「やった!」


 ティナは小さく飛び跳ねて喜び、ユーリアスは苦笑しながら首を振っていた。


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