283.これ、どういう意味?
ミカヴェルは十一年もの間、祖国フィデルを離れ、敵国ストレイア王国に身を潜めている。
ブラジェイの言う通り、ミカヴェルに〝情を傾ける相手〟がいても、なんらおかしくはなかった。
十一年という歳月は、人の心を変えるには十分すぎる。たとえそれが敵国の人間であったとしても、あり得ない話ではないのだ。
ティナは胸の奥がざわつくのを覚えながら、そっとクロエの横顔を盗み見た。
わずかに眉を下げた彼女は、しかし口元を吊り上げて笑みを形作っている。無理に笑おうとすればするほど、その表情には哀しみが滲む。
「あり得ない話じゃないね。いくらグランディオルと言っても、あの人だって一人の人間だ。ここ数年、連絡もなにもないのが……やはり、気にかかってね」
言葉の終わりは、沈む石のように重たく落ちていった。
クロエの苦渋がひときわ濃く伝わり、ティナは同じように眉を下げて胸を痛める。
執務室の空気は、誰の言葉も続かず沈黙に押し包まれた。紙とインクの匂いがやけに際立って、窓からの光さえ鈍く感じられる。
クロエの視線は遠く、今は目の前の三人を見てはいない。彼女の瞳に宿っているのは、五聖の顔ではなく、一人の女としての揺らぎだった。
「クロエ……」
ティナが思わず呼びかけると、クロエははっと小さく瞬きをして、我に返る。わざと明るさを装った声が室内に響いた。
「まあ、今さら情けをかけてどうこうって話じゃないさ。大事なのは、あの人がストレイアでなにをしているのか、ってことだ」
「そいつぁ確かにな」
ブラジェイは分厚い腕を組み、背もたれへと重たげに体を預ける。椅子が軋む音が、不安を煽るように響いた。
「けどよ、十一年だぜ? もしストレイアの連中と手ぇ組んでんだとしたら……敵に回るのは厄介すぎる」
その言葉に呼応するように、ユーリアスの研ぎ澄まされた声が続く。
「味方であるなら心強いが、裏切られればそれこそ致命傷だな」
クロエは二人の言葉を受け止め、小さく頷くと、机の上に一枚の封書を置いた。
「これが、最後に届いた手紙だ。三年前のものだよ。場所は明かされていないが、これまでの文面からして、ストレイアの奥地だろう」
ティナは目を丸くし、身を乗り出す。
「見てもいい?」
「ああ。構わないよ」
両手で受け取った紙をそっと広げる。
黄ばんだ紙は折り目が破れそうに弱り、長く大事にされてきたことを物語っていた。クロエが何度も目を通したのだろう。その古びた手触りが、三年前の時の隔たりをいっそう濃く感じさせた。
横からブラジェイとユーリアスが覗き込む。手紙の文はこう綴られていた。
『森の中は快適だ。
芽吹いた種は、静かに牙を研いでいる。
あと二、三年もすれば、狩人の求める刃となるだろう。
この快適な生活とも、やがて別れねばならない』
詩のような調子。意味を掴ませない言葉。
ティナは黙読を終えると、首を傾げた。
「……なんか詩みたい。これ、どういう意味?」
ブラジェイは鼻を鳴らし、嘲るように口角を上げる。
「はっ、牙だの狩人だの……気取った言い回しだな。詩人かよ。森で狩人ごっこしてるってことかぁ?」
だが、ユーリアスだけは眉を深く寄せ、目を伏せたまま手紙の字面を凝視する。
「……いや、妙だな。言葉を選びすぎている。普通の生活の報告にしては、不自然だ」
クロエは黙って三人のやりとりを聞き、そっと封書の角を指先で撫でた。
まつ毛は伏せられ、思いを馳せるように呟く。
「……あの人らしいよ。遠回しで、肝心なことは一つも書いてない」
淡々とした声の奥に、張り詰めた色が滲んでいた。
ティナはむうっと口を尖らせるようにして、手紙の文面に食ってかかる。
「確かに、種が牙を研ぐっておかしいよね」
クロエはしばし目を閉じ、呼吸を整える。そして慎重に言葉を紡ぎ始めた。
「……これはおそらく、なにかを作るか育てるかしているんだ。兵か……兵器か。ストレイア王国内で、ストレイアの力を削ぐためにね」
緊迫が走る。三人の視線がクロエに集中する。
彼女は一息を吸い、続けざまに口を開いた。
「おそらく……人だ。ミカヴェルは……いや、グランディオルは昔から、ストレイア王国を滅ぼすために、ありとあらゆる知識を詰めた兵器を生み出すことを得意としている」
人を兵器と呼ぶ意味を呑み込めず、ティナは首を捻らせる。
「えーと、つまり……敵国の人間に知識を授けているってこと?」
「ああ、そういうことだね」
「相手に知識を植え付けんのか? それがどうして、人間兵器になるってんだよ」
ブラジェイの疑問ももっともだった。だがクロエはわずかに目を伏せるだけで、答えを与えない。
「それは、グランディオルの者にしかわからないよ。ただ……十一年もかけて作られた人間兵器は、ストレイアにとっては脅威となるはずなんだ。けれど同時に──」
「ミカヴェルが戻らなかった場合、その脅威を向けられるのは、俺たちフィデル国の方だってことか」
ユーリアスの冷静な断言。クロエは渋い顔をしながら、頷くしかなかった。
「おいおい、やべぇじゃねぇか。三年前の時点で二、三年ってんなら、今ごろはもう完成してんだろ?」
「そのはずだ。なのに、ミカヴェルが帰ってくる気配はないんだよ」
クロエはそう言って、まるで縋るようにブラジェイとユーリアスを交互に見やった。
「……つまり、俺たちに行けということか」
ユーリアスの表情は固く、視線は鋭い。クロエは正面からその眼差しを受け止め、強く頷いた。
「ああ。それを頼むために、今日は集まってもらったのさ」
声音にはかすかな震えがあったが、覚悟の色が滲んでいた。
「なんでぇ、話は単純じゃねぇか。見つけてぶん殴ってでも連れ帰りゃあいいんだろ?」
「単純に済めばいいがな」
難しい顔をしたユーリアスの横で、ティナがシュピッと勢いよく手を挙げる。
「もちろん、私も行くよ!」
ティナが当然のようにそう言うと、ブラジェイは眉を顰めた。
「却下だ。おめぇは小うるせぇから連れて行きたくねぇ」
ブラジェイの言い草に、ティナは思わず頬を膨らませる。
「なによそれ! 私だって役に立つもん!」
「ほんとかよ……」
腰に手を当てて胸を張るティナに対し、ブラジェイは腕を組んだまま視線を逸らす。完全に取り合おうとしない態度だ。
だが、そこでクロエがふっと笑みを浮かべ、二人の間に声を差し挟んだ。
「連れて行っておあげ。ティナは言い出したら聞かないこと、あんたが一番よく知ってるだろう?」
押し殺すような沈黙が数秒、ブラジェイから漏れたのは長い溜め息だった。
「はぁぁ、しゃーねぇな。勝手にしろ」
「やった!」
ティナは小さく飛び跳ねて喜び、ユーリアスは苦笑しながら首を振っていた。




