282.どうしてそこまで信じられる?
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八年前の記憶から戻ってきたティナは、目の前の成長したユーリアスを見て、ふふっと笑みをこぼした。
「リザが、私たちを繋いでくれたんだったね」
ユーリアスは一瞬だけ目を伏せ、すぐに静かな笑みを浮かべた。
低く落ち着いた声が返ってくる。
「ああ……もう八年も前になるのか。過ぎてみれば、あっという間だな」
彼の左耳には、いつものように三日月のピアスが光を弾いている。
かつてあったはずのフィタは、すでに切れて久しい。
今ティナの手首にあるのは、本来ならリザリアが結んでいたはずのものだった。
「色々あったよね。ストレイア王国にミカ……んんっ、あの人を迎えにいったりさ」
「その後か。俺のフィタが切れて、リザのフィタをティナに結んだのは」
ティナは思わず、自分の左手首に視線を落とした。
そこに巻きつくのは、年月を経て少し色あせたフィタ。指先で撫でれば、頼りなく細くなっているのがわかる。
「アスは二年で切れたのにねー。私、もう六年になるよ!? いつ切れるの!?」
思わず声を張り上げると、ユーリアスは片眉を上げながら答えた。
「どうせ強欲な願いでもかけたんだろ」
「うっ!!」
痛いところを突かれ、ティナは目を泳がせる。
その反応に、ユーリアスは口角を意地悪く吊り上げてニッと笑った。
「で、なんて願ってるんだ?」
「ひ、秘密だってば!!」
あまりに既視感のあるやり取りに、二人は顔を見合わせて、同時にぷっと吹き出した。
笑い声はどちらも堪え切れないように弾け、懐かしい思い出がそこに蘇った。
***
それは六年前──ユーリアスがカジナル軍に加入してから、二年が経った頃のことだ。
クロエがある男の情報を持ち出したのは。
呼び出されたのは軍統官にまで昇り詰めていたブラジェイと、彼を追う立場にあるユーリアス。
そして、おまけのようにしてついてきたティナの三人だった。
重厚な執務室に漂うのは、紙とインクの匂い、そして外界から切り離された張り詰めた空気。
クロエを前に三人がテーブルに着くと、彼女の声が低く響いた。
「あんたたち。ミカヴェル・グランディオルは知っているかい?」
静かに放たれた名は、空気を揺らすような重さを持っていた。
ブラジェイは椅子に背を預け、腕を組んで口の端を吊り上げる。
「グランディオルって言やあ、フィデル国の参謀軍師と呼ばれるほどの家系じゃねぇか。見たこたぁねぇけどな」
「ミカヴェル、とは知らない名だ。過去の英雄軍師か?」
ブラジェイとユーリアスが揃って首をひねる。
ティナもまた耳慣れた家名に、心をざわつかせていた。
グランディオル──代々軍師を輩出し、国の危機のたびに影のように現れては救済してきた家系。
誰もが逸話だけは知っていても、その姿を見たことのある者は少ない。
ティナにとっても、それは実在と虚構の狭間にある存在に近かった。
「ミカヴェルは、今から十一年前……ヤウト村鉱山の紛争を指揮した男さ」
クロエの声が、室内の静けさを鋭く切り裂いた。ティナの心臓がひときわ強く脈打つ。
ユーリアスが前に身を乗り出し、眉をひそめて言った。
「ヤウト村の紛争を……そうだったのか、知らなかったな」
クロエは少しだけ口角を吊り上げ、静かに頷く。
「あんたたちはまだ子どもだったからね。無理もないよ。結局鉱山は取り戻せず、ミカヴェルも行方不明となっていたしね……」
その言葉に、ティナの脳裏に過去の会話がよみがえる。
クロエがぽつりとこぼした、ヤウト村の紛争で行方不明になったという男の話だ。
(確かあの時、クロエは頭のいい幼馴染みだって……)
確かめたわけではない。
けれど今、点と点が一本の糸で繋がる気がした。
「その、ミカヴェル・グランディオルがどうかしたの……?」
不安を含みながら問いかけるティナに、クロエはわずかに瞳を細めた。
「彼はストレイア王国で身を隠し、生きているんだよ」
その一言に、ティナの胸がぱっと弾けるように明るくなる。
頬を上気させ、思わず椅子から身を乗り出した彼女に、クロエは柔らかく微笑んだ。
「十一年間もストレイアで隠れてたのかよ? よく見つからなかったもんだぜ」
「まったくだな。だがなぜフィデルに戻って来ずに、ストレイアで潜伏していた? 捕虜だったわけでもないんだろう?」
ブラジェイの荒い声と、ユーリアスの冷静な追及。
二人の言葉を受けて、クロエは一度視線を落とし、机上を見つめた。
「あの人の考えることなんて、あたしにはわからないよ。ただ……数年に一度、連絡はあった。一方的にだったけどね」
「それ、誰にも言わなかったのかよ」
眉をひそめるブラジェイ。その声は責めるというより、呆れ混じりの響きだった。
「あんたが軍に入る前の話さ。前任の五星にはもちろん話していたよ。全権を私に委ねてくれていたけどね」
「ふうん……まぁいいがよ。で、そいつはストレイアで、なにか画策してるってことでいいんだな?」
「そう考えて、いいはずだ」
クロエは淡々と頷いたが、その横顔には確かな緊張が刻まれていた。
「ミカヴェルからの要求は、一方的だった。だが、それを私はすべて受け入れて、言われるままに実行している。それがフィデル国のためになると、信じているからだ」
真っ直ぐなその言葉に、部屋の空気がわずかに揺らいだ。
ティナは思わず息を呑み、ユーリアスは冷たい眼差しでクロエを射抜く。
「解せないな。確かにグランディオルは伝説とも言える存在だが、ヤウト村で敗戦を喫しているじゃないか。だというのに、見も知らぬ男をどうしてそこまで信じられる?」
静寂が落ちる。
クロエはほんの少しだけ瞼を伏せ、それから重みを込めて口を開いた。
「グランディオル家は、我がアグライア家と深い繋がりがあるんだ。ミカヴェルの方が三つ年上ではあるが、昔から交流があってね。あの人のことは……あたしが誰よりわかっているつもりだよ」
語る声は決して大きくなかったが、揺るぎない芯があった。
ティナの胸に「やっぱり」という確信が灯る。クロエの幼馴染みは──間違いなく、彼なのだと。
そして納得もした。以前、彼が生きていると言ったのは、既に連絡を受けていたからだ。
「家同士の深い繋がりねぇ……信じてぇ気持ちはわかるが、そいつがストレイア王国に行って、もう十一年も経ってんだろ。いくらなんでも長すぎるぜ」
ブラジェイが腕を組んで吐き出すと、ユーリアスもすぐさま同意する。
「確かに、なにかを仕掛けるにしても、十分な月日が経っているな。なのに戻ってくる気配がないというのは……」
ユーリアスの言葉にクロエは頷き、いくつかの可能性を示す。
「ああ。帰る手段がないか──あるいは帰る気がないか。どちらかだと、あたしは思ってる」
「帰る気がない? どういうこと?」
ティナが首を傾げると、間髪入れずブラジェイが答える。
「十一年もあっちにいりゃ、情を傾ける相手もいるだろうよ」
ブラジェイの短い言葉。
しかしその一撃は重く、室内の空気がさらに沈んだ。
クロエの瞳がほんの僅かに濁る。
それはまるで、見たくないものを見せつけられたかのような陰りだった。




