280.あなたに、あげるね
ティナがユーリアスの恋人リザリアに出会ったのは、この時より半年ほど前のことだった。
フィデル国として足並みを揃えるため、クロエが各地を巡り、五聖や役人たちと対話を重ねていた時期である。彼女に同行していたブラジェイは護衛であり、同時に軍人の引き抜きを進めていた。ティナは摩擦が起きぬよう、ひたすら周囲との調整に奔走する日々だった。
その最中に出会ったのが、役人の一人──リザリア・メルシェル。
周りからは「メルシェル嬢」と呼ばれていたため、ティナが「リザリア」という名前を聞いてもすぐに結び付けられなかったのはこのためだ。
ブラジェイは相変わらず気の向くまま、気に入った者を強引に引き抜いていた。
当然、周囲は納得できるはずもない。ティナはその場を和らげようと、汗をにじませながら言葉を尽くして歩き回る。そんなティナに、落ち着いた声がふいにかけられた。
「大変ね、あなた。あのブラジェイって人の尻拭いばかりじゃない」
振り返ると、銀髪に琥珀の瞳を持つ女性が柔らかに微笑んでいた。
「そ、そんな風に見える?」
「ええ。目が〝助けて〟って言ってるもの」
あまりに的確な言葉に、思わずティナは吹き出してしまった。張り詰めていた胸の奥が、ほどけるように軽くなる。
初対面にしては距離の近い物言いなのに、不思議と嫌味はなく、むしろ温かさを感じさせる人だった。
ちょうど昼の刻でもあり、彼女は気さくに昼食へ誘ってくれた。並んで食事をとりながら交わした何気ない会話に、ティナの心はひどく和らいでいく。
彼女の耳元で揺れる三日月のピアスが、白銀の髪と琥珀色の瞳に見事に映えていた。
すべての仕事を終えて帰る前、ティナは彼女の元へ改めて挨拶に向かった。
「ありがと、メルシェル嬢! あなたのおかげで色々助かったよー!」
「お役に立てたなら良かったわ」
ふわりと笑った彼女の耳飾りが、光を受けてきらめいた。
その耳へと、ティナは思わず釘付けになった。それに気づいたリザリアが、三日月ピアスに触れながらティナの目を覗く。
「これ、気に入った?」
「え? うん、すっごく可愛いよね。どこで売ってるの? ベルフォードで買える?」
「これは、エルフの村でしか売ってない希少なものなのよ。手に入れるのは、ちょっと難しいかな」
「なーんだ、そっかぁ。残念!」
肩を落としながら笑ったティナの前で、リザリアはふいに両耳のピアスを外し始めた。
「……メルシェル嬢?」
「これ、あげるわ。ティナさんに」
「ええ!?」
思わぬ申し出に、ティナは慌てて手を振る。
「だ、だめだよ、そんな大事そうなの!」
だがリザリアは、真剣な眼差しで言葉を紡いだ。
「ベルフォードとカジナルの話し合いは……決裂したでしょう?」
その一言に、ティナはハッとしながらリザリアを見つめ返す。彼女の唇は、そのまま声を発し続けた。
「このままではいけないの。ベルフォードもストレイアに面する領地。カジナルと手を取り合う時が、必ず来るわ」
トップの会談は決裂で終わっているが、ここにはわかってくれている人がいる。
「……メルシェル嬢が五聖なら良かったのに」
ティナがぽつりと漏らすと、彼女はかすかに微笑んだ。
「残念ながら、私は役人として勤めるのが精一杯よ」
「どうして? 頭もいいししっかりしてるし、これからの頑張り次第ではいくらでも──」
言いかけたティナを遮るように、リザリアは悲しげに首を振る。
「私には、エルフの血が少し混じっているの。だから……難しいのよ」
「……っ」
フィデルは他種族国でありながら、権力の頂点に立つのは常に人間だった。
エルフもドワーフも獣人も数多く暮らすが、政策の中心は人間。カジナルに住む老エルフも「暮らしにくい」とこぼすほどだ。
ティナが言葉を失うと、リザリアは不安げに眉を落とした。
「エルフって聞いて……嫌になっちゃった?」
「それはないよ! きっとすごく頑張ってるんだろうなって、そう思った!」
即座に返したティナに、リザリアはほっと微笑む。
「そんな風に言ってくれる人だからかしら。これを、友好の証として贈りたかったの」
彼女の掌の上にあるのは、三日月を模した小さな飾りに宝石がひと粒。簡素ながら、気品のある光を宿している。
「ベルフォードの人間として、エルフの血を引く者として──領地という大きな単位では難しくても、個人としての友好なら、可能だって信じたいの」
差し出された想いを、今度は拒めなかった。ティナは両手でそっと受け取る。
「ありがとう! これは私たちの友好の証ね! メルシェル嬢!」
言葉と同時にティナの頬がぱっと明るく弾け、無邪気な笑顔が花のように咲いた。
リザリアもそれに応じるように柔らかく微笑み、琥珀の瞳が光を受けて淡く輝く。
互いの顔に浮かんだのは、すっかり打ち解けた者同士だけが分かち合える晴れやかな色だった。
「次に会った時にはリザって呼んで。私もティナって呼ぶわ」
「うん、わかった! またね!」
「また!」
そうして受け取ったリザリアのピアスを、ティナは「いつか、大切な時のために」と丁寧に仕舞い込んだ。まさか今こうして取り出すことになるとは、夢にも思わずに。
ティナは震えるユーリアスの手を見つめながら、出会いと経緯を語って聞かせた。
「……そうか……リザが……あんたに……」
一対のピアスを見つめながら、ユーリアスの瞳が遠くに恋人の面影を追う。
その姿に、ティナの胸も痛んだ。次に会えばもっと親しくなれるはずだったのに、その未来は永遠に閉ざされた。
「リザって……呼び損ねちゃった……」
ユーリアスの掌の中で、冷たい銀の光がかすかに漏れ、震えていた。彼はそれを強く握り締め、喉の奥で言葉を詰まらせる。
ティナはその横顔を見つめるだけで、胸が締め付けられるように痛んだ。
「……ユーリアス」
そっと呼びかけながら、ティナは彼の手の上に自分の手を重ねた。
ゆっくりと指を開かせ、一対のうち片方の三日月を摘み上げる。
「これは、私が持ってる。リザと私の、友好の証だから。でももう一つは──あなたに、あげるね」
差し戻すのではなく、分かち合うように。
ティナの声には、自身も気づかぬほどの決意が宿っていた。
ユーリアスはしばらく黙ったまま、手の中の小さな月を見つめていた。
やがてふっと息を吐き、かすかに笑う。
「……いいのかよ、本当に」
「うん。リザは、その方が喜ぶと思って」
喉を詰まらせる彼を見て、ティナは不安げに視線を向ける。
「……ごめん。余計なお世話だった?」
「いや……ありがとう、ティナ」
真っ直ぐに名前を呼ばれた瞬間、胸の奥に衝撃が走った。「あんた」としか呼ばれなかった声が、その名を優しく震わせる。
「あは。名前、呼んでくれるの?」
「勘違いするなよ。リザの代わりに、あんたの名前を呼んでやるだけだ」
わざと捻くれた調子。それでもその声の奥に滲んだ温度を、ティナは確かに感じ取っていた。




