279.あは、惚気だ
レストランの柔らかい灯りが、テーブルの上に並ぶ水のグラスやカトラリーに小さくきらめいた。
ティナはユーリアスの横顔をじっと見つめた。すると、八年前の出会いの瞬間がまるで昨日のことのように胸に蘇り、思わず笑みがこぼれる。
「あー、そうだったそうだった! ほんっと出会った頃から青臭かったんだよね、アスは!」
「まったく、何回〝青二才〟と言われたことだかな」
「今も思ってるよ?」
「勘弁してくれ」
息を吐き出すユーリアスの顔には、呆れたような半笑いが浮かぶ。
しかし、互いの視線がぶつかると、自然に肩の力が抜けて、二人はぷっと笑い出した。
「うん、でもまぁ、あの頃に比べたらアスも大人になったかな。お姉さんは寂しいッ!」
「誰がお姉さんだよ。二歳しか変わらないだろ」
ティナはただの水しか入っていないグラスを、指先で揺らす。表面に反射する光を目で追いながら、得意げに胸を張った。
「二歳もあれば十分だよ。年上の余裕ってやつ、感じてるでしょ?」
格好は決まっているように見えても、へっへーんとでも言いそうな表情は、昔とまったく変わっていない。
ユーリアスは半眼でそれを眺め、ふっと鼻を鳴らす。
「余裕っていうより……騒がしさしか感じないな」
「なにそれ! 失礼な!」
ティナの頬がぷくっと膨らむ。その無邪気な表情に、ユーリアスの唇は自然と綻んだ。
(……変わらないな)
胸の奥に、八年前の記憶がじわりと蘇る。怒って、笑って、泣いて、また笑って──そのすべての瞬間を巻き込みながら、ティナは今も変わらず彼の心を揺らしていた。
「なになに、その顔ー!」
「いや。やっぱりティナはティナだと思っただけだ」
「ふふん、そう簡単に真似できないでしょ。私は唯一無二だからね!」
大きな胸を張るティナに、ユーリアスは肩をすくめる。
「真似しようなんて、思わないさ」
「なにそれ、どう言う意味!?」
ぷくぅっと膨れる頬は、二十九歳とは思えない仕草だ。
しかしこんな彼女だからこそ、すぐに打ち解けられたのだとユーリアスは思えた。
「まぁ、最初は険悪だったが、こうして話すようになるのは早かったな」
「あー、そういえばそうだったよね。なんで仲良くなったんだっけ?」
首を傾げるティナの横顔を見ながら、ユーリアスは軽く指を立てて、ティナの手首をちょいと指差した。そこには、細くて今にも千切れそうな紐が巻かれている。
「あ、フィタ! そうだ、確かアスの手首にフィタが巻かれてて……そっか、それがきっかけだったっけ」
ティナは自分の左手首に視線を落とす。
そこに巻かれているのは、かつて精緻な幾何学模様で編まれていた紐──フィタ。
すでに細く今にも千切れそうになっているフィタに、思わず指先でそっと触れた。その頼りない手触りに、過去の記憶がふわりと蘇っていく。
***
八年前──
ユーリアスがカジナル軍に入った翌日のことだった。
軍の施設の廊下には午後の陽光が差し込み、舞い上がった微かな塵が、光の筋の中でゆらゆらと漂っている。
窓辺に立つユーリアスの姿は、その光を背にして輪郭を際立たせ、金の髪をきらきらと輝かせていた。
整った横顔。人目を惹く美しさと男らしさは、通りすがる兵士や職員の視線を自然と吸い寄せる。頬を染めた女たちに「あの人誰!?」と噂されていく。
けれど、ティナの目を引いたのは彼の美貌ではなかった。
彼の左手首に巻かれていた一本の紐──色糸で繊細に編み込まれた、幾何学模様の可憐な飾りだった。
ティナの瞳は自然とそれに奪われる。
「ねぇ、それってプロミスリング?」
昨日の言い争いなどすっかり忘れて、ティナは話しかけた。
普通に話しかけられたユーリアスは、少し驚きながらも気にせず言葉を返す。
「こっちじゃプロミスリングというのか。ベルフォードじゃ、フィタっていうんだが」
「フィタ? へぇ。願掛けするのも同じ? 切れると願いが叶うって、こっちじゃ言われてるんだけど」
「ああ、まぁ同じだな」
ティナは唇の端を押さえて、むふっと笑った。
「なになに、なんて願いを込めてるの!?」
「言うわけないだろ。なんでわざわざお前なんかに……」
「お前じゃなくて、ティナだってば!」
ぷくっと頬を膨らましながらも、ティナはじっとそのフィタを見つめた。色とりどりの糸が織りなす細やかな模様は、女性的な柔らかさも帯びている。
「へぇ、かわいい……こういうのが趣味なんだ」
ティナの好奇心に、ユーリアスはふっと顔を背けた。
「俺の趣味じゃない。死んだ恋人がな……俺とお揃いのものが欲しいと言うから、買ったんだ」
「あ……」
言葉に詰まったティナは、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われ、沈黙するしかなかった。
ユーリアスは影を背負いながらも、紐にそっと触れた。亡き人を思う指先の動きに、愛情が滲む。
「結局渡せずじまいさ。リザの分は……新品のまま、取ってある」
「そ……っか……残念、だったね……」
言葉を零した瞬間、ティナは自分の軽率さを悔やんだ。
(ユーリアスも、ブラジェイと同じなんだ……愛する人を、失って……)
その喪失感は、ティナ自身の胸にも痛みを呼び起こした。
ユーリアスのように恋人を失ったわけではない。
けれど、ティナもまた──大切な人を理不尽に喪う苦しみを知っている。
胸の奥に押し込めてきた痛みが、彼の言葉に触れてひやりと揺らぎ、静かな共鳴を響かせた。
その重さに息を詰めながらも、支えたい一心で、ティナはそっと問いかける。
「どんな人だったか、聞いていい?」
「いい女に決まってるだろ」
少し照れ隠しを含んだ答えに、ティナの口元が和らぐ。
「……あは、惚気だ」
ティナの言葉は、ユーリアスに影を帯びた微笑を浮かばせた。
「ああ、めちゃくちゃ美人だった。絹糸のような長い銀髪でな。琥珀色の目が印象的なんだ」
「……銀髪で……琥珀色の目?」
ティナの脳裏に、半年前にクロエたちとベルフォードを訪れた時の記憶が浮かぶ。そこにいた女性の面影が、まさにその説明と重なった。
「もしかしてその人、月のピアスをしてたことなかった?」
「……なんで知ってるんだ?」
訝しげに眉を寄せるユーリアス。
ティナは自分で言っておきながら、あまりの偶然に驚き目を見張る。そして考えるより先に、ユーリアスの手をぐいっと引っ張った。
「来て! 私、それ持ってるんだ!」
「……は??」
戸惑う声を背中に受けながら、ティナはユーリアスの手を引いた。
廊下を駆け抜け、自室へ押し込む。心臓の鼓動がやけに早く、手先が熱を帯びて震える。
引き出しを開け、奥にしまい込んでいた小さな包みを取り出した。
掌に載せたそれは、一対の三日月のピアス。
銀色が光を受けて淡くきらめき、どこか月明かりのように静かな冷たさを放っている。
「その人が着けてたの、これじゃない!?」
差し出した瞬間、ユーリアスの瞳は揺れた。その指が恐る恐るピアスを手にする。
そしてまだ誰かの温もりが宿っているかのように、優しく包まれた。
「……リザの……ピアスだ……!」
その声は掠れて、今にも途切れてしまいそうだった。
喉の奥から押し出されたわずかな言葉に、ティナの胸も強く締めつけられる。
ユーリアスの手が震えているのに気づいたティナは、見てはいけないものを覗き込んでしまった気がして。
声にならない息を、そっと押し殺した。




