276.多分、いい気はしてないと思うんだよね……
軍に入ってから十年。
当時の記憶を振り返っていたティナは、ふと、煙草を吸い終えたクロエの横顔に目をやった。
紫煙が細く立ちのぼり、真昼の光に透かされながらゆらゆらと天へ消えていく。苦みを帯びた香りが鼻をくすぐり、そこにかすかな甘い残り香が漂っていた。クロエという人間が持つ冷徹さと温かさ、その両方を映し出すように。
ティナの様子に気づいたのか、クロエは自然に視線を下ろし、彼女の腰に吊るされたカルティカを見やる。そして穏やかに、目尻を細めた。
「シャノンも喜んでいるだろうね。ティナに大切に扱われて」
クロエの穏やかな声に、ティナは少し肩をすくめる。
「そうかな。借りパクしちゃってるから、いつかシャノンに返さなきゃって思ってるんだけどね」
指先は無意識にカルティカの柄へと触れていた。いつか……と思い続けながら、今年で十年だ。
「いいんじゃないのかい? もう貰ってしまっても」
クロエの言葉は、本気でそう信じている響きを含んでいた。
ティナは少しだけ視線を落としてカルティカを抜き取ると、刃に映る自分の顔をぼんやりと見つめる。
「……ブラジェイはなにも言わないけど、多分、いい気はしてないと思うんだよね……」
あの日、ブラジェイが投げ捨てたカルティカを、ティナは探し出して装備した。
当然、彼が気づいていないはずはない。
けれど彼は、なにひとつ口にしなかった。
「捨てろ」とも、「返せ」とも、「それはシャノンのものだ」とも。
その沈黙が、十年経った今でもティナの胸に重く残っている。
刃は少しずつ痩せ、もう新品の輝きはない。それでもティナは、ただ「預かっている」と思いながら握り続けていた。
「そんなことを気にする男じゃないさ。機会があれば聞いてみな」
「……うん」
ティナが小さく頷くのを確かめたクロエは、吸い終えた煙草を腰の黒革の小袋に押し込んだ。
内側の銀板に火を押し付けると、じゅっと小さな音を立てて火は潰え、残り香だけがわずかに立ちのぼる。蓋を留め金で閉じる仕草は無造作で、それでいてどこか優雅だった。
クロエは穏やかに微笑み、休憩の終わりを告げるようにその場を後にする。庁舎の扉を押して姿を消すと、辺りにはほんのりと煙草の香りだけが残された。
ティナはその背中を見送り、思いを馳せる。
(私……あの時から、ブラジェイのことを好きになっていったんだ……)
当時はまだ、気持ちを明確にはしていなかったけれど。
ブラジェイを守る──その一心で、ずっとそばにいた。
ブラジェイの不器用な優しさは、幼い頃からよく知っている。
からかうような言葉の奥に隠された気遣いも、ぶっきらぼうなくせに気にかけてくれる仕草も。
触れられると嬉しくなる気持ちが恋だと気づくまでに、そう時間は掛からなかった。
しかし、それから十年。
ティナはこの想いを、ブラジェイに告げたことはない。
言いたくとも、伝えられなかった。
シャノンに遠慮しているわけではない。もしもこのことを彼女に相談すれば、きっと『言っちゃいなさいよ! 私のことなんて気にしなくていいの!』と言ったことだろう。
それでも言えずにいるのは、あまりに今さらすぎる告白だからだ。真剣に好きだと伝えることが恥ずかしい。呆れたような顔をされるのも、目に見えている。
(それに、ブラジェイってクロエと仲がいいんだよね……もしかしたら、もうクロエと……)
深く息を吐いて軍の施設へと足を向けようとした──その時。庁舎の扉が再び開き、ユーリアスが現れた。
「ティナ。まだいたのか」
「アス。用事は終わったの?」
真昼の陽光が降り注ぎ、ユーリアスの金髪を照らす。きらめく光が彼を縁取って、思わず眩しさに目を細めてしまう。
「まぁな。今から昼飯を食べるつもりだが、一緒に行くか?」
「わぁい、アスの奢りだー!」
「勝手に決めるな。まったく、仕方ないな」
「やったー!」
ユーリアスは呆れ顔で肩をすくめ、それでも口元に小さな笑みを浮かべ、歩き出す
ティナは嬉々として隣に並び、二人は笑い合いながら街のレストランへと入っていった。
昼時のレストランは、外の強い日差しを和らげる木枠の窓から、やわらかな光が差し込んでいた。焼き立てのパンの香りや、煮込んだスープの湯気が、落ち着いた空気に溶けていく。
二人が席につき、やがて料理が運ばれてくる。
ティナの前には、香草の香りをまとった白いスープが湯気を立てていた。柔らかく煮込まれた根菜がとろけるように沈んでいて、表面には焦がしバターの黄金色が浮かんでいる。
一方、ユーリアスの皿には肉料理が置かれた。厚く切られた仔牛のステーキに、赤ワインのソースが艶やかにかけられている。添えられた芋のピュレからも、ほくほくとした湯気が立ちのぼっていた。
ティナは「いただきまーす」と声に出し、スプーンを動かし始めた。だが数口食べたところで、向かいのユーリアスの皿に目が吸い寄せられる。
「ねぇ、アス?」
「なんだ、ティナ」
「一口ちょうだい!」
予想通りの言葉に、ユーリアスは半ば諦め顔で息を吐き出す。
「言うと思ったさ」
「だってアスのやつ、美味しそうなんだもん」
「毎回それだ」
そうぼやきながらも、ユーリアスは肉の端をきれいに切り分けてティナの皿に置く。ティナは遠慮もせず、ぱくりと頬張った。
「わー、やっぱり美味しい!」
満面の笑みのティナをみて、ユーリアスはさらに呆れる。
「だったら最初から頼めばいいだろ」
「それは違うんだよねー。ちょっと食べたいだけだもん」
「……わからん」
そう言いながらも、すっかり慣れ切った様子が混じっている。
二人はこうしたやり取りが積み重なって、絆が形作られていた。
パンをちぎりながらティナはユーリアスを見て、ふと口元を緩める。
「でもさー。こうして一緒にご飯食べるのも、もう長い付き合いになったよね」
「ああ……そうだな。八年になるか」
ティナは小さく笑みを浮かべ、窓から差し込む午後の光で金色に輝くアスの髪を見つめる。
あの頃はまだぎこちなかった関係が、今では心地よい安心感に変わっていることを、胸の奥でじんわりと感じていた。
八年という歳月が二人の距離を育て、互いの存在を当たり前のように支え合うものにしていた。
「八年かぁ。最初は私、アスのことちょっと怖かったんだよ」
「嘘つけ。お前は最初、俺のことを目の敵のようにしてたぞ」
「え、そうだっけ?」
ティナはスプーンを持ったまま、目を丸くして小首をかしげる。
記憶をたぐり寄せて、やがて苦笑まじりの表情を浮かべた。
「あー、だってあの頃のアス、生意気だったんだもん! 青二才のくせにさ! まぁ今もだけど」
ぷぷっと笑い声を漏らし、からかうようにユーリアスを見上げる。
ユーリアスは深いため息を吐いた。ティナがことあるごとに「青二才」と呼ぶので、彼としては面白いはずもない。
「でもまぁ、出会った頃のアスは可愛かったよね! 生意気盛りで!」
「言っとくが、ティナは今もあの頃のまま変わらないからな。つまり今じゃ、ティナの方が青臭いってことだ」
「えー、そんなことないと思うけどなー!」
「いや、ある」
「じゃ、いつまでも若々しいってことだね!? やった!」
「……本当に都合よく解釈するな、ティナは」
ユーリアスは呆れ顔を隠しもせず、しかしその口元には小さく笑みが浮かんでいた。
ティナはそれを見逃さず、満足げに口角を上げる。
(懐かしいなぁ。アスとの出会い)
スープの揺れる表面を見つめながら、ティナの心はそっと過去へと遡っていく。
八年前。彼との最初の出会いの日へ。




