273.森に捨てられていいものじゃないよ……!!
ブラジェイがシャノンを抱きしめるその姿を、ティナは肩越しに静かに見守っていた。
二人の間を流れる沈黙は重く、言葉ひとつ割って入ることさえ憚られる。
ただ、崩れ落ちそうな背中が、失ったものの大きさを物語っていた。
やがて──夜の静寂を破るように、遠くから草を踏み分ける足音が近づいてくる。
一瞬にして空気が張り詰め、ティナの背筋がぴんと伸びた。
野盗か──そんな緊張が、喉の奥を固く締め上げる。
手は空だった。ククリもカルティカも、今は手元にない。
武器がなければ逃げるしかない、と身を低くした瞬間──
「ティナ、ティナー!!」
夜気を震わせる声が響いた。
耳に届いた瞬間、その緊張は音を立ててほどける。クロエだ。
松明の炎を掲げ、兵たちを率いて駆け寄ってくる影が闇の向こうに見えた。
兵士たちが彼女を護るように周囲を固めている。
「クロエ……」
思わず声が漏れる。
その顔を見た途端、張り詰めていたものがふっと和らいだ。
「ティナ、無事でよかった……心配したよ!」
駆け寄ったクロエは、まずティナの肩を強く握りしめてから、ふと周囲に目を向け──そして息を呑んだ。
松明に照らされた村の光景は、言葉を選ぶ余裕すら奪うほど無惨だった。
「……ここに来るまでも見たが……惨い……」
唇を噛み締める音が聞こえそうなほど、クロエの表情は険しい。
その視線が、ティナの背後──シャノンを抱くブラジェイへと移る。
二人を捉えた瞬間、クロエの喉が詰まった。
「……生存者は……ブラジェイだけか?」
「うん……多分……」
「……そうか」
クロエは息を詰めたまま歩み寄り、しっかりとした口調でブラジェイへと声をかけた。
「よく生き延びてくれた、ブラジェイ。話は後で聞こう。野営の準備をしているから、今は休むといい。埋葬は……明日だ」
その声音は、軍を率いる者としての冷静さと、友人としてのどうしようもない無力感の入り混じった響きだった。
ブラジェイはすぐには動かず、しばらくシャノンを腕の中に抱きしめ続ける。
そして、静かにその体を地面へと横たえ、ゆっくりと立ち上がった。
「火ぃ、貸してくれ……」
隣の兵士から松明を受け取ると、篝火台へ次々と炎を移していく。
ぱちぱちと薪が爆ぜる音が、夜の闇を少しずつ押し返す。
火を返すと、ブラジェイはクロエに視線を戻した。
「ティナを連れて行ってくれ」
「あんたは、ブラジェイ」
「俺は……しばらくここにいる」
短く、それ以上は語らない。その頑なな声に、クロエもそれ以上は追及しなかった。
「……おいで、ティナ」
「でも……っ」
「一人にしておあげ」
諭すようなクロエの言葉に、ティナは唇を噛み、俯きながらも彼女の後ろについて歩き出す。
足元の土は冷たく、踏みしめるたびにざくざくと乾いた音を立てた。
村の入口付近では、兵たちが手際よくテントを張り、野営の支度を進めていた。
炎の明かりが風に揺れ、影が地面を不安定に踊らせる。
「ここに泊まるのもいいし、街に戻ってから休みたいなら、それでもいい」
クロエの提案に、ティナは小さく首を振った。
「ううん……ここにいるよ……」
「そうか」
そう言うと、クロエはティナの頭を、片腕でぎゅっと抱きしめた。
「……つらかったな」
「……っ、クロエ……! みんなが……シャノンが、ロビが……あぁぁぁああ!!」
声が震え、涙があふれる。
ブラジェイの前では必死に堪えていたはずなのに、クロエの腕の中ではもう抑えられなかった。
肩が上下し、嗚咽がこぼれる。
「泣きな……今は耐えなくていいんだよ。存分に、仲間を思って泣いておあげ」
「ぁぁぁあああ!! ああぁぁぁぁあああああッッ!!」
ティナはそのままクロエの腕の中で、泣いて、泣いて、泣き疲れて……
嗚咽はやがて、眠りに変わっていく。
クロエの温もりと、焚き火の音が、ティナを深い眠りへと引きずり込んでいった。
ティナが目を覚ましたとき、空はまだ白んでいる途中だった。
ティナは隣で眠るクロエの寝息を聞きながら、そっとその場を抜け出した。
朝の冷たい空気が肺の奥まで染み渡り、胸の内の痛みがじんわりと広がる。
まだ空は薄暗く、村は静寂に包まれていたが、ところどころに残る血の痕が生々しく、昨日の凄惨さを語っていた。
ティナは真っ先に、昨夜ブラジェイと過ごした森へと向かった。
森の中はまだ光など入らず、明け方の冷気が肌を刺すように冷たい。
昨日、ブラジェイが投げ捨てた短剣──カルティカを探しながら歩く。
昔から、探し物は得意だ。
記憶を辿り、木の根元にひっそりと落ちているそれをすぐに見つけた。
綺麗に拭き取ったつもりでいたが、柄の部分にはまだ、かすかな血の跡が残っている。
ブラジェイは、シャノンの命を奪ったこの剣など、もう要らないと考えているだろう。
(でも……これは、シャノンの大切なものだもん……このまま、森に捨てられていいものじゃないよ……!!)
ティナはカルティカを拾い上げて、ぎゅっと握りしめる。
せめて、シャノンのお墓に添えてあげたい。
たとえ、ブラジェイが嫌がったとしても。
そんな思いを抱きながら、短剣を腰のホルダーへと装備する。
そうして集会所を目指して森を抜けると──ちょうど朝日が差し込み、金色の光が集会所の前を満たしていた。
その光の中、ブラジェイは背を向けて立っていた。村人たちの遺体はきれいに並べられ、胸の上で手を組まれている。血は拭われ、静かな顔がそこにあった。
「ブラジェイ……」
思わず名を呼ぶ。泣いているように見えた背中が、ゆっくり振り返る。けれど、その顔には一滴の涙もなかった。
「おう……昨日は、眠れたか?」
「……うん……ごめん……」
「謝んな。眠れたんならそれでいい」
ぶっきらぼうなその言葉が、かえって心に突き刺さる。
胸が締め付けられて、ティナは言葉を飲み込んだ。
「ブラジェイは……一晩中、一人で……?」
「兵士が何人か手伝ってくれてな。いいっつったんだが……おかげで、全員をここに集められた」
そこに、ロビの姿もあった。胸のククリは取り払われ、吐血で染まっていた顔も、きれいに清められていた。
「……ロビ……ッ」
その顔を見ると、喉が詰まった。
手も足も、勝手にぶるぶると震え始める。
「ロビのやつは、家の前で倒れてたらしい。多分、お袋とばぁちゃんを逃がそうと、戦ったんだろうな」
「う……うぅうっ」
ブラジェイの前では泣かないと決意していたティナだったが、どれだけ我慢しようと唇を噛んでも、涙が溢れそうになる。
そんなティナの頭を、ブラジェイはぽんと優しく叩いた。
「見てやってくれ。あいつ、なんかいい顔して死んでんだ」
その言葉に、ティナは我慢の糸が切れたように声が漏れる。
「う、うぁ、あぁぁぁあああ!! ロビーーーーッッ!!!!」
ティナはロビに駆け寄ると、組まれた手の上に手を乗せる。
そして泣き叫んだ。
ブラジェイの言った通り、ロビは穏やかな顔をしていて。
── ほら……ティナは……やさ、し、い……。
最期の言葉が、胸の奥で疼く。
「ごめん……ごめん、ロビ、ごめん──」
吐き出すたびに胸が裂けて、裂け目から冷たい風が吹き抜けるような痛みが走った。
呼吸がうまくできず、涙と嗚咽が混ざって声にならない。
ザッと、土を踏みしめる音が隣に近づいた。
ブラジェイの影が覆いかぶさり、低い声が落ちる。
「なに謝ってんだ。おめぇはなんも悪くねぇだろ。ティナがいない時でよかったって……そんな顔してるぜ、ロビのやつ」
ティナは言葉を失い、ただ涙に声を飲み込むしかなかった。
──言えなかった。
ティナが着いた時、ロビはまだ息をしていたこと。
その命を絶ったのは、自分だということを。
「うぁぁあ、ああぁあぁあッッ!!」
ティナの慟哭は、静かな朝を迎えた村に、波紋のように広がっていった。
空気は冷たく澄み、音を吸い込むように静まり返っている。
昇りかけの朝日が、ティナの頬を伝う雫を金色に染めた。
宝石のようにきらめきながら落ちるその一粒一粒が、土に吸い込まれ、跡形もなく消えていく。
それは──確かにここにあった命の証。
物言わぬ彼らが、最後の声をそこに託し、ティナに知らせているようだった。




