272.どこ行くの……危ないよ……
ティナは膝を抱え、掌の上に載せたカルティカを見つめていた。刃にこびりついていた血はすでに拭い去り、月明かりを受けて微かに輝きを取り戻している。
だが、その煌めきは冷たく、どこか人の温もりを拒むようだった。
カジナルからの軍勢は、まだ到着していない。まとまった隊を組んで動くには時間がかかるだろう。斥候が近くまで来ている可能性はあったが、森の奥深くに潜むティナの耳には、人の足音は届かない。
(もし、ここに誰か探しに来たら……それがカジナル軍じゃなくて、野盗だったら……)
背筋を走る悪寒に、思わず身を縮める。それでも、彼女はカルティカを握る指先に、ぎゅっと力を込めた。
(ブラジェイは、私が守る……! シャノンの死を、絶対に無駄にしたりしない!!)
その時、小さな気配が、静かな空気を裂いた。
野鼠の足音──それに反応した瞬間、ひやりとしたなにかが足首に触れる。
「!!」
反射的に飛び退く。闇の中から、掠れるような声が聞こえた。
「ティナ……か……?」
その声に、ティナは息を呑み、慌てて駆け寄る。暗闇のせいで、はっきりとした顔は見えない。
「ブラジェイ! 大丈夫!?」
「ここは……」
「村の、森の中だよ」
「シャノン、は……」
その名を聞いた瞬間、ティナの胸が詰まった。言葉が喉に引っかかる。村の現状も、シャノンの死も──家族を失った事実も、あまりに残酷すぎる。
起き上がろうとするブラジェイに手を貸しながら、ティナは逆に問いかけた。
「一体、村でなにがあったの……?」
しばらく、ブラジェイは答えなかった。月の光も届かぬ闇の中で、彼の瞳はどこか遠い場所を見ている。
「……野盗だ……あいつらが入ってきた時、もう何人かの村人がやられてた。……残ってた連中は、武器を手にして集会所に集まった」
ティナの脳裏に、春祭りや秋祭りで賑わった広場の情景が浮かぶ。だが、その記憶はブラジェイの低い声に塗り替えられていった。血と鉄の匂いに満ちた、もう二度と笑い声の戻らない光景へ。
「っつっても、鍬や鎌だ。俺も畑にいたから、ろくなもんは持ち合わせちゃいなかった。女たちは包丁を持ってきてたようだがな」
その声には、苦い後悔と怒りが滲んでいる。
「シャノンもいた。みんなを励ましててな……〝きっとブラジェイがやっつけてくれる。大丈夫よ〟って……」
ブラジェイの声がわずかに震えた。
その情景がティナの脳裏にありありと浮かぶ──不安を押し隠し、笑みを浮かべるシャノンの姿。
「俺らは……必死で戦ったんだ。けどあいつら、慣れた動きしてやがった。とてもじゃねぇが……普段、農作業しかしてない奴が勝てる相手じゃねぇ」
歯を噛み締める姿が、闇の中でもわかる。
「次々に……殺された。……女たちは、わかったんだろうな。犯されるか……売られるか……殺されるかしか、道はねぇって」
ティナの胸がきつく締め上げられた。屈辱に生きるくらいなら──そんな、村の女たちの覚悟に。
「……家族が殺されるたびに……みんな、自分で……くそっ!!」
その先は声にならず、喉の奥で途切れた。夜風だけが二人の間をすり抜けていく。
「……俺は……最後まで戦ったが……駄目だった。っは、笑っちまうぜ。何度も護衛や護送をしてきた俺が、肝心な時に限って、剣を持っていやがらねぇ……!」
ブラジェイの拳が膝の上で固く握られる。節の白さが、月明かりに浮かび上がった。
「家に置きっぱなしでよ……この村は平和だって、慢心してやがった……ちくしょう……」
「……ブラジェイ……」
その悔しさは、痛みとなってティナの胸を刺す。
「……俺は囲まれて、同時に斬られて……視界が真っ暗になった。……そこで、終わりだ。あとはどうなったのか、わからねぇ」
ティナは言葉を失い、カルティカを握る手に無意識に力を込める。
暗闇の中、ブラジェイの眼光だけが鋭く光り、ティナを射抜いた。
「教えてくれ……シャノンは、どうなったのか」
もう、隠し通すことはできない。唇を噛み締めながら、ティナはカルティカを差し出した。
「……連れ去られたか?」
首を振る。
「……犯されたのか」
険しい声。それにも首を振る。ブラジェイの必死な気持ちが痛いほど伝わる。
いや、彼は信じているのだ。シャノンが、自ら命を断つような女ではないと。
「殺された、か……」
想定していたのか、諦めたような声音でそう呟く。だが、ティナはそれにも首を横に振った。
ブラジェイの息がひゅっと鳴り、空気が一気に張り詰める。
「まさか──」
ティナは息を吸い込み、震える声で告げた。
「シャノンも……自害してた……その、剣で……っ」
昇り始めた月が、ブラジェイの瞳に淡く反射する。
「俺は……っ」
ブラジェイは強く剣を握り締め。
「自害させるために、カルティカを渡したんじゃねぇぇえええええ!!!!」
叫ぶと同時に、カルティカを力任せに投げつけた。
短剣は、乾いた音を立てて闇に消える。怒りと悲しみが爆発し、夜気を震わせた。
「ブラジェイ……」
ティナはこみ上げる涙を噛み殺す。泣くべきは、自分ではないとわかっているから。
暗闇の中でも、ブラジェイが歯を食いしばっているのがわかる。
そんな彼に、ティナはポケットの中のものを探った。
「あのね、ブラジェイ……これ、見てほしいんだ……」
差し出したのは、空になった中級ポーションの瓶。
「こいつは……シャノンに渡した……」
ティナはその言葉に、そっと頷いた。
「まさ、か……シャノンのやつ……!」
意味を悟った瞬間、ブラジェイは息を詰まらせ、瓶を強く握る。
「俺なんかに使わず、自分で使やぁいいもんを……なんのために、俺が薬を渡したと思ってんだ……っ」
その声は、怒りでも泣き声でもない。やるせなさだけが、重く沈む。
「シャノンは……生きてほしかったんだよ……誰よりも、ブラジェイに……っ」
涙が零れそうになり、ティナは唇を噛んだ。
ブラジェイは黙って立ち上がると、集会所の方へと歩き始める。
「どこ行くの……危ないよ……」
呼びかけにも応えず、彼は広場へと向かっていく。ティナもその背を追った。
月光に照らされ、無数の遺体が静かに眠る光景が広がる。
ブラジェイはまっすぐにシャノンの元へ向かっていった。
月明かりの下、彼女はまるで眠っているかのように穏やかな顔をしている。だがその肌は、もう熱を宿してはいない。
そっと膝をつき、ブラジェイはシャノンの体を両腕に抱き上げる。
その動きは、あまりにも慎重で、薄いガラスを扱うかのようだった。
「すまん……シャノン……」
掠れた声が、夜の闇に溶けていく。
その後、彼は微かに笑った。けれどそれは、涙をこらえるための笑みだった。
「お前が笑っていられるように……俺が全部、背負うつもりだったのによ……」
言葉の端が震えている。
「……守ってやれねぇで……すまねぇ……っ」
喉が詰まり、もうそれ以上は声にならなかった。
ただ彼は、シャノンの髪に顔を埋め、しばらく動かなかった。
遠くで夜鳥の鳴く声が、静けさをさらに深く沈めていく。
ティナはその光景を見つめながら、胸の奥でなにかがひっそりと崩れていくのを感じていた。
なにも言えない。なにを言っても、ブラジェイの喪失は埋まらないとわかっていたから。
ティナは、空を見上げる。
雲ひとつない夜空に、冷たい月がぽっかりと浮かんでいた。
その光はあまりに澄み切っていて、息をするたび胸が痛む。
風も止まり、空気さえ固まったような静けさの中で──
天は、今にも割れそうだった。




