271.そんなの持ってたんだ……!
ロビの命を終わらせたティナは、頭の中がぐちゃぐちゃになったまま、すべてを振り切るように走っていた。
視界に映るのは──どこまでも広がる赤。血に染まった村の色。
彼の胸を刺した瞬間の、手のひらに残る生々しい感触が離れない。
そんなことをした自分が、恐ろしくて。
あの笑顔が……あの人生が、たった今終わってしまったことが、どうしても信じられなくて。
「ぁぁ……あぁぁぁあ……っ」
押し殺したはずの声が、喉の奥から零れた。泣き声とも嗚咽ともつかない、引き裂かれるような音だった。
やがて足がふらりと止まり、気づけば──村の広場。集会所の前に立っていた。
ここでは春と秋に祭りが開かれ、小規模ながらも村中が集まり、踊り、歌い、腹が裂けそうなほど食べて笑った。
けれど今、その面影は一欠片もない。
地面に広がるのは、鮮血と死臭。
おそらく、戦える者たちはここに集められ、最後まで抗ったのだろう。
男たちの亡骸と、その傍らで──絶望に耐えきれず、自ら命を絶った女たちの静かな姿。
ひゅっ、ひゅっ……と浅く、不規則な呼吸が耳にうるさいほど響く。
肺に空気が入らない。視界が揺れる。
そして──見慣れた顔があった。ブラジェイの母、そして祖母。
立ちのぼる血と鉄の匂いが、理性をずたずたに裂いていく。
「はぁ……はぁ……っ」
二人の幼馴染みを必死に探す。
どうか……いないで。そう祈りながら。
──けれど、祈りは届かなかった。
「ブラジェイ……シャノン!!」
ブラジェイが仰向けに倒れ、その体を抱きしめるようにしてシャノンが横たわっていた。
ティナは駆け寄り、シャノンを抱き起こす。
「……っ!!」
だらりと垂れる頭部。その首の傷口からは、もう冷たくなった血がぽたりと落ちる。
脈を確かめるまでもなかった。
シャノンは──もう、いない。
「シャノン……〜〜〜っ」
声が掠れ、涙で滲む視界の中で、シャノンをそっとブラジェイの隣に寝かせる。
そのままブラジェイに手を伸ばした──その瞬間。
「……え?」
ドクン、と。
自分の鼓動と重なるように、わずかな生命の律動が、手のひらに伝わった。
「生きて……る?」
その事実が胸を突き抜けた瞬間、視界が一気に滲む。
二人の姿を見た時には──もう、すべて終わっていると覚悟していたのに。
「よか……っ」
けれど、その先の言葉は喉で止めた。
こんな惨状の中で、「よかった」なんて、口が裂けても言えない。
それでも──ブラジェイだけでも生きていることが、ただただ嬉しかった。
ティナは急いで傷口を確かめる。服は大きく裂けているのに、不思議なことに傷は浅い。
「どういう……こと……?」
理解は追いつかない。けれど、命はある。他に致命的な外傷もない。気を失っているだけだ。
ふと、視線の端で、夕陽の最後の光を反射してなにかがきらりと光った。
ティナは立ち上がる。
「カルティカ……」
その名を呼びながら、血に濡れた短剣を拾い上げる。
シャノンはこのカルティカで命を絶ったのだろう。
地面には、血を流しながら這った跡。自分の首を切り裂いた後、最後の力でブラジェイのもとへ来たことを物語っていた。
視線を二人の方に戻すと、もう一つ別の光が目に入った。
「これ……」
それはポーションの瓶だった。手に取ると〝中級〟のラベルが貼ってある。
「中級ポーション……! シャノン、そんなの持ってたんだ……!」
──その瞬間、脳裏に蘇る。
まだ村が平和だった日の、畑の脇道。
ブラジェイがシャノンに手渡しながら言っていた。
『なんかあった時のために、持っとけ』
ぶっきらぼうに差し出された小瓶を、シャノンは両手で受け取り、呆れたように笑う。
『ブラジェイの方が気をつけなさいよ!? 危険なことばっかりして』
『俺ぁ大丈夫だ。運動神経がいいからな』
『そういうことじゃないでしょ!』
『いいから持っとけ。お守りみてぇなもんだ』
その会話を、ティナとロビは繁みでこっそりと聞いていた。
二人がその後、幸せそうに笑い合う姿と声は、今も脳裏に焼き付いて離れない。
外貨を稼ぎ、庁舎にも出入りをしていて、クロエとも親しかったブラジェイなら──中級ポーションを手に入れることも不可能ではない。
あれはきっと、この瓶だったのだ。
シャノンは自害し、すぐに死んだように見せかけて。
野盗が去った後、血にまみれながら、這うようにブラジェイの元へと辿り着き……きっと、口移しで飲ませた。
自分は、飲まずに。
愛する人だけを、生かすために。
「……っ、シャノン」
唇を噛み、シャノンの頬を撫でる。
冷たいはずなのに──温もりがまだ残っている錯覚に、すがりついた。
「生きてるよ、ブラジェイ……シャノンが、生かしてくれたから……」
シャノンの決意を思うと、熱いものが胸に溢れ、張り裂けそうになる。
「でも……シャノンも、生きててほしかったよ……」
頬を濡らす涙が止まらない。
空を見上げれば、太陽は完全に沈み、一番星が静かに瞬いていた。
ひゅうっと吹き抜けた風に、背筋がぞくりと震える。
野盗とはまだ遭遇してはいない──けれど、近くに潜んでいる可能性は十分ある。
もし今見つかれば、シャノンが命を賭して守ったものが、一瞬で無に帰す。
ティナは短剣──カルティカを強く握りしめた。
「シャノン……カルティカを、貸して……」
彼女の持ち物から鞘を探し、短剣を納める。
自分のククリはロビの胸に刺さったまま。この刃だけが頼りだった。
「ごめん、シャノン……あとで必ず来るから……ごめん……」
ブラジェイの大きな体を引きずり、村外れの森の陰へ向かう。
そこは、ブラジェイがシャノンにプロポーズしたあの場所──村人でも知る者は少ない、隠れ場所として最適な場所だった。
「はぁっ……はぁ……っ」
全身の力が抜けそうになる。火事場の馬鹿力──そんな言葉が、ぼんやりと頭をかすめた。
森の陰にたどり着き、ブラジェイをそっと地面に横たえる。
耳を近づけると、静かだが確かな呼吸音が聞こえた。
「ちゃんと、生きてる……生きてる……っ」
その事実が胸を満たし、張り詰めていた糸がぷつりと切れる。
安堵と疲労が同時に押し寄せ、視界がにじむ。
けれど、シャノンとロビの笑顔は、もうどこにもない。
この場にいれば、きっと一緒に喜んでくれたはずなのに──そう思うと、胸の奥がずきりと痛んだ。
ティナは下唇を噛み、涙をこぼしながら、その場に崩れ落ちた。




