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あなたを忘れる方法を、私は知らない  作者: 長岡更紗
カルティカの涙〜フィデル国の異母姉編〜

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272/391

270.無理……無理、だよ……

 陽が沈みかけ、グリレル村は茜色の海に呑まれていた。

 焼けるような夕日が家々や道を染め上げ、影は長く伸び、どこまでも赤黒く滲んでいく。

 それなのに──人の声はひとつも聞こえなかった。足音も、家畜の鳴き声も。まるで世界からすべての生気が剥ぎ取られたかのように。


 その静寂を破ったのは、鼻を突く鉄臭い匂い。

 強烈な血の匂いが、村の入口に立ったティナの胸をえぐる。


 指先が冷たくなっていく。震える足で馬を降り、息を潜めて一歩、また一歩と村の中へ。

 地面が頼りなく揺れるようで、歩みは覚束ない。

 現実感が遠のき、頭の奥がふわふわと浮かんでいく。


 視界に飛び込んできたのは──鍬を握ったまま倒れた、男の遺体だった。


「っ……おじさん……」


 声が震える。

 いつも村の入口で「よぉ、ティナちゃん」と笑ってくれた温かな人の、その笑顔はもうどこにもない。冷え切った骸となり、地面には血が黒々と広がっていた。


 胸の奥でなにかが弾け、ティナは駆け出す。


(ブラジェイ……シャノン……ロビ……!)


 赤く染まった道を踏みしめ、ブラジェイの家を目指す。

 その途中、道端や庭先に倒れ伏す村の男たちが次々と視界をかすめるたび、心はさらに沈み、恐怖と焦燥が喉を締めつけた。


 ──そして。

 ブラジェイの家の前で、ティナは見つけてしまう。

 地面に倒れる、ロビの姿を。


「ロビ!! ロビーーッ!!」


 喉が一瞬にして乾ききる。足元がふらつきながらも駆け寄り、膝をついた。

 仰向けに倒れたロビの胸には、深く斜めに走る剣傷。

 それは現実とは思えず、まるで悪い夢の中に迷い込んだかのようで──心が混乱の渦に飲み込まれていく。


「うそ……やだ、ロビ──」


 その名を読んだ、その時。

 ぴくりとロビの手が、動く。


「ティ、ナ……?」

「ロビッ!!!!」


 まだ生きている──けれど、それは奇跡のような状態だった。

 助かる見込みなどなく、むしろここまで持ちこたえている方が不思議なほどの傷と、流れ続けた血。


「ロビ! 大丈夫だからね!! すぐに止血を──」

「いい……もう……助から、な……」


 短い吐息と共に、かふっと血を吐き出す。

 その音が、ティナの心臓を素手で握り潰すかのようだった。


「ロビ……やだ、ロビ……ッ」


 涙が溢れ、視界を歪ませる。

 そんなティナを、ロビは切なげな眼差しで見つめ、途切れ途切れに懇願した。


「くる……しいんだ……楽に、して……たの、む……」

「ロ……ビ……?」


 ティナの頬から、一気に血の気が引いていく。

 視線を落とすと、ロビの周囲に転がる三つの小瓶が目に入った。

 中身はすでに空。──低級のポーションだ。


 致命傷を負った直後に、必死で飲み干したのだろう。

 そのおかげで命はつながれた。けれど、それは救いではなかった。

 商人がカジナルに報せ、ティナがここに駆けつけるまでの何時間も──ただ延々と、激痛と呼吸の苦しみに縛りつけられることになったのだ。


 ロビは最後の力を振り絞るように、ティナを見つめた。

 その瞳は、今にも消えそうな炎のように揺れている。


「ティ、ナ……おね、がい……だ……」

「そんな……大丈夫だよ……もう少しだけ我慢すれば、きっとクロエがポーションを持って来てくれる! それまで──」


 その言葉は、喉の奥で途切れた。

 ロビが、あまりにも悲しい目をしていたから。


 ポーションは、希少だ。

 低級品は出回っていても、これだけの致命傷を癒やす力は乏しい。せいぜい延命──それも、苦しみを長引かせるだけ。

 クロエが中級以上のポーションを持って来てくれる可能性は、ほとんどない。

 薬があったとしても、それらは国や軍の要人、あるいは必要とされる人材のために取っておかれる。庶民が手にする機会など、まずない。


(もう……ロビは、わかってるんだ──)


 頬を伝う涙が止まらない。

 クロエが低級のポーションを持ってきたとしても、この地獄は終わらない。

 体の損傷が、回復の速度を上回ってしまっては。


 そして──ロビの傷は、どう見ても、取り返しがつかないほど深かった。


 中途半端な延命は、彼をさらに苦しめるだけなのだ。


「ティ……ナ……」


 声は続かない。けれど、その瞳はすべてを語っていた。

 こんなことを頼んでごめん。許してほしい。早く終わらせてくれ──と。


 ふいに、脳裏に浮かぶ光景があった。

 ──夕暮れの丘。

 草の上に寝転び、二人で見上げた空は、今日と同じ色をしていた。

 ロビは穏やかに笑いながら、摘んだ花冠をティナの頭にそっと乗せた。


『ほら、似合ってる』


 その声は、今よりずっと力強く、温かかった。


(そんな……私が、ロビに止めを刺すなんて……!!)


 誰よりも大切な、幼馴染みの手を握る。皮膚の下の熱があまりにも薄く、命の灯火が消えかけていることがわかってしまった。

 けれど、それでも彼はまだ──生きている。


「無理……無理、だよ……ロビを……私が……!!」


 殺せるはずがなかった。

 幼い頃から共に過ごし、一緒に成長してきたロビを。

 ブラジェイのプロポーズを覗いて……笑って、手を繋いで──この村を一緒に歩いたのは、たった三日前の話だというのに。


 これからもそんな日が、ずっと続くと信じていたのに。


「ティナ、が……いい、んだ……」


 弱々しくも、ロビは微笑んだ。

 殺されるならティナがいい。他の誰にも委ねたくない──そう訴えるように。


「ごめ……ん、ね……」


 その顔が苦痛に歪む。

 この苦しみがどれほどの地獄なのか、想像するだけで頭が割れそうになる。


 これ以上は、だめだと。

 ティナは唇を血が出そうなほど噛み締めた。


「ロビ……ロビ……私が……私の手で、終わらせてあげる……だってロビは……賊なんかに負けない……強くて、優しい人だから……っ」


 声は涙に震え、言葉の端がかすれる。

 それでもロビは、ほっとしたように笑った。


 ティナは腰のククリに手を伸ばし、鞘から引き抜く。

 刃が夕日に鈍く光り、指先が小刻みに震えた。

 視界が涙で滲み、世界が揺れる。


 ロビは優しく目を細め、まるで〝それでいい〟と言っているようだった。

 ──あの時と同じ目だ。

 木の上から落ちたティナを抱きとめ、『大丈夫、僕がいるから』と笑った時と。

 その記憶が胸を締めつける。


 ティナは泣き叫びたい衝動を必死に押し殺し、ククリをそっとロビの心臓へ当てる。


「ふ、ふえ……ロビ……ごめん……ごめん……っ」


 ロビはゆっくりと瞬き、受け入れる。

 ティナは力を込め、刃を静かに沈めていった。


 ロビの顔がわずかに歪み、血が唇から溢れる。

 それは悪夢のような光景で──もし夢なら、どれほど救われるだろうと願った。


 けれどロビは、最後に確かめるように、ふっと笑った。


「ほら……ティナは……やさ、し、い──」


 その瞬間、瞳の奥の光がすっと消える。


「ロビ……ロビ……?」


 自分の手で終わらせたはずなのに。

 ティナの心は、それを受け入れられない。


「うそ……やだ、うそ……っ!! あぁ……あぁぁぁっぁああああっっ!!」


 胸に突き立つククリ。二度と動かぬ唇。光を失った瞳。

 すべてが、信じたくない現実だった。


 真紅に染まる夕日が、彼の血と重なって滲む。

 ティナは耐えられず、その場から逃げるように走り出した。


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