270.無理……無理、だよ……
陽が沈みかけ、グリレル村は茜色の海に呑まれていた。
焼けるような夕日が家々や道を染め上げ、影は長く伸び、どこまでも赤黒く滲んでいく。
それなのに──人の声はひとつも聞こえなかった。足音も、家畜の鳴き声も。まるで世界からすべての生気が剥ぎ取られたかのように。
その静寂を破ったのは、鼻を突く鉄臭い匂い。
強烈な血の匂いが、村の入口に立ったティナの胸をえぐる。
指先が冷たくなっていく。震える足で馬を降り、息を潜めて一歩、また一歩と村の中へ。
地面が頼りなく揺れるようで、歩みは覚束ない。
現実感が遠のき、頭の奥がふわふわと浮かんでいく。
視界に飛び込んできたのは──鍬を握ったまま倒れた、男の遺体だった。
「っ……おじさん……」
声が震える。
いつも村の入口で「よぉ、ティナちゃん」と笑ってくれた温かな人の、その笑顔はもうどこにもない。冷え切った骸となり、地面には血が黒々と広がっていた。
胸の奥でなにかが弾け、ティナは駆け出す。
(ブラジェイ……シャノン……ロビ……!)
赤く染まった道を踏みしめ、ブラジェイの家を目指す。
その途中、道端や庭先に倒れ伏す村の男たちが次々と視界をかすめるたび、心はさらに沈み、恐怖と焦燥が喉を締めつけた。
──そして。
ブラジェイの家の前で、ティナは見つけてしまう。
地面に倒れる、ロビの姿を。
「ロビ!! ロビーーッ!!」
喉が一瞬にして乾ききる。足元がふらつきながらも駆け寄り、膝をついた。
仰向けに倒れたロビの胸には、深く斜めに走る剣傷。
それは現実とは思えず、まるで悪い夢の中に迷い込んだかのようで──心が混乱の渦に飲み込まれていく。
「うそ……やだ、ロビ──」
その名を読んだ、その時。
ぴくりとロビの手が、動く。
「ティ、ナ……?」
「ロビッ!!!!」
まだ生きている──けれど、それは奇跡のような状態だった。
助かる見込みなどなく、むしろここまで持ちこたえている方が不思議なほどの傷と、流れ続けた血。
「ロビ! 大丈夫だからね!! すぐに止血を──」
「いい……もう……助から、な……」
短い吐息と共に、かふっと血を吐き出す。
その音が、ティナの心臓を素手で握り潰すかのようだった。
「ロビ……やだ、ロビ……ッ」
涙が溢れ、視界を歪ませる。
そんなティナを、ロビは切なげな眼差しで見つめ、途切れ途切れに懇願した。
「くる……しいんだ……楽に、して……たの、む……」
「ロ……ビ……?」
ティナの頬から、一気に血の気が引いていく。
視線を落とすと、ロビの周囲に転がる三つの小瓶が目に入った。
中身はすでに空。──低級のポーションだ。
致命傷を負った直後に、必死で飲み干したのだろう。
そのおかげで命はつながれた。けれど、それは救いではなかった。
商人がカジナルに報せ、ティナがここに駆けつけるまでの何時間も──ただ延々と、激痛と呼吸の苦しみに縛りつけられることになったのだ。
ロビは最後の力を振り絞るように、ティナを見つめた。
その瞳は、今にも消えそうな炎のように揺れている。
「ティ、ナ……おね、がい……だ……」
「そんな……大丈夫だよ……もう少しだけ我慢すれば、きっとクロエがポーションを持って来てくれる! それまで──」
その言葉は、喉の奥で途切れた。
ロビが、あまりにも悲しい目をしていたから。
ポーションは、希少だ。
低級品は出回っていても、これだけの致命傷を癒やす力は乏しい。せいぜい延命──それも、苦しみを長引かせるだけ。
クロエが中級以上のポーションを持って来てくれる可能性は、ほとんどない。
薬があったとしても、それらは国や軍の要人、あるいは必要とされる人材のために取っておかれる。庶民が手にする機会など、まずない。
(もう……ロビは、わかってるんだ──)
頬を伝う涙が止まらない。
クロエが低級のポーションを持ってきたとしても、この地獄は終わらない。
体の損傷が、回復の速度を上回ってしまっては。
そして──ロビの傷は、どう見ても、取り返しがつかないほど深かった。
中途半端な延命は、彼をさらに苦しめるだけなのだ。
「ティ……ナ……」
声は続かない。けれど、その瞳はすべてを語っていた。
こんなことを頼んでごめん。許してほしい。早く終わらせてくれ──と。
ふいに、脳裏に浮かぶ光景があった。
──夕暮れの丘。
草の上に寝転び、二人で見上げた空は、今日と同じ色をしていた。
ロビは穏やかに笑いながら、摘んだ花冠をティナの頭にそっと乗せた。
『ほら、似合ってる』
その声は、今よりずっと力強く、温かかった。
(そんな……私が、ロビに止めを刺すなんて……!!)
誰よりも大切な、幼馴染みの手を握る。皮膚の下の熱があまりにも薄く、命の灯火が消えかけていることがわかってしまった。
けれど、それでも彼はまだ──生きている。
「無理……無理、だよ……ロビを……私が……!!」
殺せるはずがなかった。
幼い頃から共に過ごし、一緒に成長してきたロビを。
ブラジェイのプロポーズを覗いて……笑って、手を繋いで──この村を一緒に歩いたのは、たった三日前の話だというのに。
これからもそんな日が、ずっと続くと信じていたのに。
「ティナ、が……いい、んだ……」
弱々しくも、ロビは微笑んだ。
殺されるならティナがいい。他の誰にも委ねたくない──そう訴えるように。
「ごめ……ん、ね……」
その顔が苦痛に歪む。
この苦しみがどれほどの地獄なのか、想像するだけで頭が割れそうになる。
これ以上は、だめだと。
ティナは唇を血が出そうなほど噛み締めた。
「ロビ……ロビ……私が……私の手で、終わらせてあげる……だってロビは……賊なんかに負けない……強くて、優しい人だから……っ」
声は涙に震え、言葉の端がかすれる。
それでもロビは、ほっとしたように笑った。
ティナは腰のククリに手を伸ばし、鞘から引き抜く。
刃が夕日に鈍く光り、指先が小刻みに震えた。
視界が涙で滲み、世界が揺れる。
ロビは優しく目を細め、まるで〝それでいい〟と言っているようだった。
──あの時と同じ目だ。
木の上から落ちたティナを抱きとめ、『大丈夫、僕がいるから』と笑った時と。
その記憶が胸を締めつける。
ティナは泣き叫びたい衝動を必死に押し殺し、ククリをそっとロビの心臓へ当てる。
「ふ、ふえ……ロビ……ごめん……ごめん……っ」
ロビはゆっくりと瞬き、受け入れる。
ティナは力を込め、刃を静かに沈めていった。
ロビの顔がわずかに歪み、血が唇から溢れる。
それは悪夢のような光景で──もし夢なら、どれほど救われるだろうと願った。
けれどロビは、最後に確かめるように、ふっと笑った。
「ほら……ティナは……やさ、し、い──」
その瞬間、瞳の奥の光がすっと消える。
「ロビ……ロビ……?」
自分の手で終わらせたはずなのに。
ティナの心は、それを受け入れられない。
「うそ……やだ、うそ……っ!! あぁ……あぁぁぁっぁああああっっ!!」
胸に突き立つククリ。二度と動かぬ唇。光を失った瞳。
すべてが、信じたくない現実だった。
真紅に染まる夕日が、彼の血と重なって滲む。
ティナは耐えられず、その場から逃げるように走り出した。




