269.待ってて、みんな……今、行くから!!
クロエの幼馴染みが、七年前の鉱山紛争に関わっていた──
その頃、ティナはまだ十二歳だったが、大人たちが声を荒らげ、街全体が落ち着かない空気に包まれていたことをはっきり覚えている。
三百年も昔のこと。ヤウト村は、ストレイア王国の領地でもフィデル国の領地でもなかった。
そこに暮らしていたのは、山と鉱脈を愛するドワーフたちだった。
彼らの誇りと生活を支えるのは、村の奥深くに眠る黄金の鉱山。
だが、その輝きが人の欲を呼んだ。
ストレイアの当時の王は、その土地と金鉱を欲し、武力でもぎ取った。血と炎に覆われた村から、ドワーフたちはフィデル国へと逃げ延びた。
フィデルは彼らを保護し、やがて村を取り返すために剣を掲げる。だがその胸中には、ドワーフへの正義よりも、鉱山を手中に収めたいという思惑が深く潜んでいた。
両国の間で、奪っては奪い返す攻防が何度も繰り返された。数年、あるいは数十年の間隔を空けながら、三百年の時を経てもなお争いは終わらない。
そして一番新しい戦が、七年前のことだった。
フィデル国には、代々名軍師を輩出する家がある。その血筋の一人である若き参謀ミカヴェル・グランディオルが、ヤウト村奪還の指揮を執った。
最初の進軍は鮮やかで、勝利は目前と思われた。だが、ストレイア軍の筆頭大将が前線に現れた瞬間、戦況は一変する。
激しい戦の果て、軍師を含む多くの兵が戦死、あるいは行方不明、捕虜となり……帰還できたのは半数にも満たなかった。
クロエの幼馴染みは、そのヤウト村の攻防に参加していた──そして七年経った今も、行方不明のまま。
ティナは胸の奥で、言葉にしない結論を下さざるを得なかった。七年も帰らぬ者は、おそらく……。
その考えが顔に出たのだろう。クロエは、ふっと口角を上げる。
「そんな顔をするな。あの人は……生きている」
「あ……そうなんだ、よかった」
「多分な。あたしはそう信じて、約束を守るだけだ」
「……うん、そうだね!」
ティナには、クロエが〝生きている〟と言った理由はわからなかった。ただ否定するのは違うと思い、素直に頷く。
「だからさ、ティナ。あんたは行き遅れる前にさっさと結婚しておきな。あたしみたいになりたくないならね」
「クロエはまだ若いでしょ!」
「あたしはいいんだよ。けどあんたは自由すぎる。このままだと、あっという間に三十になっちまうよ」
「ま、結婚は幾つになってもできるもんだし、だいじょーぶでしょ!」
軽口を交わしながら、ティナが笑顔を向けると、クロエは肩をすくめた。
「そう言ってるうちが華かもね。……さて、そろそろ仕事を仕上げてしまうか」
クロエが書類を確認しようと手を伸ばした、その瞬間──
石畳を蹴る硬い靴音が、外から庁舎の廊下へ一気に響き渡った。
──バンッ!
扉が荒々しく開かれ、兵士が飛び込んでくる。続いて、顔面蒼白の商人風の男が息を切らせながら後を追った。
「大変です!!」
ただならぬ声に、クロエが即座に立ち上がる。ティナの胸にも、冷たいものが走った。
「なにがあった! 落ち着いて報告しろ」
クロエの鋭い声に、兵士は肩で息をしながらも必死に言葉を絞り出す。
「……グリレル村が、襲撃されました!!」
思いもよらぬ言葉に、ティナの意識は一瞬で真っ白になる。
「……なんだと!?」
クロエの声が、庁舎の空気を張り詰めさせた。
グリレル。
あの輝くような田畑と風の匂いに満ちた、穏やかな村。
ロビがいて、シャノンがいて、ブラジェイがいて──ティナの帰る場所。
「う、そ……っ」
声にならない声が唇から漏れる。胸の奥がざわつき、呼吸が浅くなる。駆け出そうとしたティナの腕を、クロエが咄嗟につかんだ。
「ティナ、待て! まだ詳細がわからない! 勝手に動くな、危険だ!」
「でも、でもっ!!」
焦りが全身を突き動かす。手を振り払おうとした瞬間、クロエの声が鋭く空気を裂いた。
「まずは話を聞け!!」
その迫力に、ティナの動きが一瞬止まる。クロエは兵士ではなく、背後の商人へと視線を移した。
「あなたは? 見たのか?」
「は……はい……。生活用品を届けに行ったんですが……村が、荒れていて……人々が逃げ惑って……」
男の手は震え、言葉は途切れ途切れ。血の気が引いた顔で、それでも続ける。
「野盗だと……思います……。村を襲って……男たちを殺し……女を……っ」
「……っ!」
ティナはそれ以上、聞いてはいられなかった。
クロエの手を振り払って肩で扉を押し開けると、そのまま駆け出した。
「ティナ!! 無茶はするな!! 今出兵の準備を──」
クロエの声が背後に響く。
けれど、それはもうティナの耳には届かない。
(お願い、お願い……!)
心臓が喉までせり上がるほど脈打つ。ロビ、シャノン、ブラジェイ──顔が次々に浮かんでは消えていく。
遠く離れているもどかしさが、胸を締めつけた。
(お願い……誰も死なないで……っ)
庁舎裏の厩舎に飛び込み、一番脚の速い栗毛の馬へ駆け寄る。
「お願い! 走って! グリレルまで!!」
その背にひらりと飛び乗る。そしてそのまま街道へ──栗毛は地を裂くように走り出した。
頬を切る風が痛い。喉は焼けるように乾く。
それでも、ティナは止まらない。
(待ってて、みんな……今、行くから!!)
押し寄せる焦燥と恐怖に、心のざわつきは高まるばかりだった。




