267.ここはやっぱり、私の原点だなぁ
ティナは目を細め、小川のほとりに立った。陽を映してきらめく水面の向こうには、かつて幾度となく笑い声を響かせた風景が、そのままの形で広がっている。
朝の光を反射して揺れる水の帯。その上を、小さな虫たちがふわりと舞い、遠くの林からは小鳥のさえずりが静かに届いていた。
時間が歩みを止めたように変わらないままの小川。
ティナがふっと息をつく隣で、ロビが思い出すように声を落とした。
「ここで魚つかまえようとして、二人してびしょ濡れになったりもしたよね」
その懐かしさを噛みしめるような声に、ティナが笑う。
「したした! ロビ、転んで川に落ちたよね〜! あれめちゃくちゃ笑った!」
「笑ってたの、ティナだけだからね……」
ロビが眉を下げて苦笑するのを横目に、ティナはひとしきりと笑ったあと、ふと真剣な面持ちで水面を見つめた。
「ここはやっぱり、私の原点だなぁ」
そのつぶやきは、ごく自然な呼吸のように空気に溶けた。
けれどロビは、その言葉の裏に込められた思いをすぐに察したようで、目を細めて静かに頷いた。
「嬉しかったよ。ティナが久しぶりに来てくれて」
「えへっ、ほんと?」
「ほんと」
ロビの声には、まっすぐな気持ちがこもっていた。それを受け取って、ティナは照れたように笑った。
「都会だと、色々あるだろ? ……もっとこっちに帰ってきて、いいんだからね」
「ん……ありがと、ロビ」
その言葉に、二人の間を一瞬、優しい静寂が包む。
小川のせせらぎが、優しく川渕を撫でていく。ティナはその流れを目で追いながら、小さく呟いた。
「今、ちょっと気になってることがあってさー」
「なにが?」
「ブラジェイのこと」
ティナはふと視線を落としながら口にした。
──あの短剣、カルティカ。
人前では決して渡そうとしなかった彼の姿が脳裏に浮かぶ。
ブラジェイのことだから、照れ隠しに見せかけて、妙なところで意地を張っているのでは──そんな不安が、ほんの少しだけ胸をよぎる。
すると、ロビの表情がわずかに変わった。眉がピクリと動く。
「今朝ちょっと兄貴と話したんだ」
「ん? なにを?」
「……なんか、兄貴に『ティナを散歩にでも連れ出せ』って言われて」
「え、えぇぇ!? それって……」
ティナの声が裏返る。思わぬ展開に驚きつつ、胸の奥がざわめいた。期待と、少しの緊張が入り混じる。
「もしかして、ブラジェイ……今日、シャノンにプロポーズするつもりじゃない!?」
「多分ね。兄貴、包みを持って出て行ったし。短剣みたいなの」
「それ、絶対カルティカ!! もう決まりじゃない!? 完全にプロポーズだよ!!」
思わず両手で頬を包むと、ティナの顔がぱぁっと赤らんだ。
嬉しさと興奮が混ざり合って、勢いよく声を上げる。
「ちょ、ちょっとロビ! ねえ、覗きに行こっ! 今から! 行こ行こっ!」
「……え? ええ!? さすがにそれは……」
ロビは困惑気味に一歩後ずさるが、ティナはその腕をぐいっと掴んで引っ張った。
「だって気になるでしょ!? ほら、行くよ! 急がないと間に合わないかも!」
「いや、でもそれってちょっと……!」
「お願い! 一生に一度の瞬間を、こっそり見届けるだけだから! ね? ちょっとだけ! ねっ!」
懇願するティナの瞳が、陽光を受けてきらきらと輝いていた。
その勢いに気圧されたロビは、観念したように肩を落として、ため息をひとつ。
「……もう、わかったよ。ほんとにちょっとだけだよ?」
「やったーっ!! ロビ大好き!! よっし、行こうー!」
ティナの声が弾ける。小さな体が勢いよく跳ねるように駆け出し、戸惑うロビの手をぐいと引いた。森の奥へと続く細道を、二人は風のように駆けてゆく。葉擦れの音が耳をかすめ、小鳥たちのさえずりが遠ざかっていった。
向かった先は、森の中にある小さな開けた場所。ブラジェイが好んで足を運ぶ、静かなところだ。
きっとそこだと、ティナは確信していた。
草の葉が揺れ、木の影が優しく二人を包み込む。息を殺して木陰にしゃがみ込むと──その視線の先には、目的の人物たちの姿。
ブラジェイが、シャノンの前に立っている。
「いた……!」
ティナとロビは声を殺しながら、木の陰からじっと様子を窺う。
シャノンは少し驚いたような表情で、その場に立ち尽くしていた。風が彼女の髪を揺らし、木漏れ日がその輪郭をやわらかく縁取っている。
そして、無言のままブラジェイが差し出したのは──カルティカだった。
その瞬間、ティナの喉がかすかに鳴る。空気が、張り詰める。
「結婚、すんだろ」
ブラジェイは、それだけをぽつりとぶっきらぼうに呟いた。
「……」
「……」
「……ちょ、ちょっと! 今の言い方、なに!? もっと他にあるでしょーがー!! 愛してるとか、生涯守るとかさぁ!」
たまらず本音がティナの口から飛び出し、ロビが慌てて塞ぐ。
「しっ! バレるから!」
「でも、あんな言い方! 全然ロマンチックじゃないし、そっけなすぎ!」
さすがのロビも、「うーん……」と眉を寄せて言葉に詰まる。
だが──
木の隙間から見えるシャノンの表情は、驚きでも、戸惑いでもなかった。
ほんのりと、小さく微笑んでいた。まるで、心の奥からふっと浮かび上がったような、あたたかい笑み。
「……あ。笑ってる」
ティナがぽつりと呟く。
「なんか、嬉しそうだね」
ロビの声にも、どこか安堵の色が混じっていた。
「……うん。そっか。あれでよかったんだ」
そう言って、ティナはしゃがんだまま膝の上で頬杖をついて、その幸せそうな横顔を見つめ続けた。木々の間をすり抜ける風が、二人の間をそっと撫でていく。
(なぁなぁなんかじゃ、なかったね。シャノン)
胸の奥がじんわりと温かくなる。
大好きな友達の幸せを、ちゃんと見届けられて──
「……いいな、シャノン」
そう小さく呟いたティナの声は、風の音に溶けていく。
──その時だった。
ブラジェイが一歩、シャノンに近づいた。静かに、しかし確かな足取りで。そして、ゆっくりと顔を近づけていく。
「わわ、見ちゃだめ! 行こ!」
ティナは慌てて立ち上がり、ロビの手を引いてその場を離れる。二人の間に流れる空気を、壊さないように。
森を抜けると、陽光が木々の間から舞い降りてきた。風が髪を揺らし、世界が少しだけ明るくなったような気がした。
「キスのひとつやふたつで、そんなに逃げなくても」
「だってあれは、二人だけの空間でしょ?」
「見に行こうって言ったのティナだけどね……」
「あはっ、そうだった」
そう言いながらティナは、てへっと笑ってぺろっと舌を出した。
ロビは肩をすくめながらも、どこかあきれ顔で隣を歩き続ける。
ティナはちらっと空を見上げて、ほっと息をついた。
「……でもよかった。シャノンも嬉しそうで……」
「うん。あんな兄貴の言葉でも、ちゃんと伝わるんだなって思った」
「ほんとそれ!!」
思い出して、ティナはぷっと吹き出す。
──結婚、すんだろ。
プロポーズとも言えないその決めつけのような一言が、頭の中で何度もリフレインする。
「でも……うん、ブラジェイらしいよね!」
「まぁね」
二人は顔を見合わせ、自然と微笑みがこぼれる。
ぶっきらぼうで、不器用で、言葉足らず。
それでも、シャノンの笑顔がすべてを物語っていた。
「次は──僕たち、かな」
ロビのその言葉は、ふいに風の中に混じるように静かだった。
ティナは目を丸くして、首を傾げ、腕を組む。
「まずは相手を探さなきゃな〜。全然その予定ないし!」
「……そう、だね」
ロビが大きく息を吸い、口を開きかけたその時──
「あっ! やばっ、時間!」
ティナが突然声を上げて、太陽の位置を確認する。
「もう帰らなきゃ! シャノンによろしく言っといて! じゃっ!」
シュピッと手を上げて挨拶すると、ティナはぱっと踵を返して走り出す。村の出口に向かって、風のように。
「……えっ、ちょ、ちょっとティナ!?」
ロビが呼び止める間もなく、ティナの姿は木々の影に消えていった。
その背中を、しばらく見つめていたロビは、小さく息を吐く。
口にしかけた言葉は、そのまま喉の奥にそっとしまわれた。
「……ほんと、変わってないな」
苦笑交じりの彼の呟きに、不思議と悔いは混じっていなかった。
木漏れ日がきらきらと揺れる中、ロビは静かに歩き出す。
ふと、脳裏に浮かぶのは、いつだって前を向いている幼馴染みの笑顔。
それがあまりに眩しくて──ロビの唇は自然と綻んでいた。




