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あなたを忘れる方法を、私は知らない  作者: 長岡更紗
カルティカの涙〜フィデル国の異母姉編〜

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266.い、今はそれほどでもないよ?

 小鳥のさえずりで目を覚ますのも、このグレリルならではだ──そう思いながら、ティナは気持ちよく目を開けた。

 朝の空気はひんやりとしていたが、柔らかな陽光が肌に触れるたび、心までほどけていくような心地よさがある。


 シャノンの家は、朝から笑い声に包まれていた。ティナもお腹を満たし、空になった皿を手にして席を立とうとしたその時、隣からロビがやってきて、当たり前のようにドアを開けた。

 この家にはよく出入りしているので、誰も特に気に留めていない。


「ティナ、ちょっといい?」


 その声に、ティナはぱっと顔を上げた。


「ロビ、どうしたの?」


 弾かれたように椅子からぴょんっと飛び降り、小走りでロビの前に駆け寄った。

 ロビは一瞬ティナに目をやり、それから奥のシャノンに視線を移して静かに告げる。


「シャノン、ちょっとティナを借りるよ」

「どうぞ、行ってらっしゃい!」


 シャノンは笑みを浮かべたまま、当然のように二人を送り出した。

 ロビはティナに視線を戻し、やわらかく促す。


「来て、ティナ」


 その言葉と同時に、ロビの手がそっと伸ばされる。ティナの手が自然とそこに重なり、二人は繋がれた手をそのままに、ゆっくりと家を出た。

 外に出ると、朝の光がまだ若々しく田舎の景色を照らしていた。空気は冷たすぎず、ぬるすぎず、草の匂いがほのかに漂う。

 歩き出してすぐ、ティナは小さく笑った。


「あは、手を繋ぐなんて久しぶり!」


 その明るい声に、ロビも少しだけ頬を緩める。


「昔はよく繋いだけどね」

「うんうん。だってロビって、すぐ泣くんだもん!」


 あはっと思い出し笑いするティナに、ロビは心底困ったように眉尻を下げる。


「僕を泣かせたのは、ティナだけどね」

「ええー、そうだった?」


 首を傾げるティナの目は、まっすぐで無邪気そのもの。どうやら本人に、その記憶はまるでないらしい。

 そんな様子に、ロビは軽く息を吐いた。


「そうだよ。かくれんぼしてて僕の存在忘れたりさ。山ん中に入っていって僕だけ置き去り事件もあったよね」

「う! あ、あったね……途中で気づいて慌てて探しに行ったら、ロビはその場で大泣きしてたんだよねー……ご、ごめんね?」


 ばつが悪そうに眉を下げ、視線だけでそっとロビを窺うティナ。子どもの頃の記憶の中にある小さなロビの泣き顔が、ふっと脳裏をかすめた。


「それだけじゃないよ。僕が一生懸命作ってた秘密基地の屋根に飛び乗って、ぶち壊しちゃうしさ」

「あー! あの時も大泣きしてた!」


 声を上げるティナの顔は、申し訳なさよりも懐かしさの方が勝っている。


「後で食べようと思ってたお祭りのクッキー、ティナが全部食べちゃうし」

「あれは、我慢できなくて、つい……!」


 悪気はなかった──けれど、何度もティナの〝つい〟に泣かされてきたロビ。そんな記憶のひとつひとつが、今はただ懐かしくて、二人の胸をじんわり温める。

 ロビは目を細め、ふっと穏やかに息を吐いた。


「でもどの時もさ……ティナはよしよしって僕の頭を撫でてくれて、手を引いて連れて帰ってくれるんだ」

「でしょでしょ? 私ってばやっさしーい!」


 満面の自信たっぷりな笑顔に、ロビは肩をすくめながら言い返す。


「言っとくけど、泣かせたのは全部ティナだからね?」

「う! ごめーん!」


 繋いだ手をぶんぶん振りながら謝る姿に、ロビの顔からふっと微笑が漏れた。


「でも……うん。ティナは優しいよ」


 その言葉に、ティナの動きがぴたりと止まった。次の瞬間には、パッと顔を上げ、太陽みたいな笑みを浮かべる。


「てへ! でしょでしょ!?」

「こら、調子に乗るんじゃない」


 ロビは繋いでいない方の手で、そっとティナの頭をこつんと小突いた。力なんて込められていない、むしろくすぐったいほどの優しいゲンコツで。

 ティナはぺろっと舌を出す。その様子にロビがまた、柔らかく笑う。


「ねぇティナ。僕が初めてカジナルに行った時のこと、覚えてる?」

「うん、もちろん! 私が街を案内したんだよねー」

「その時さ、街の子どもが僕を見て笑ったんだ。〝田舎くさい、田舎に帰れ〟って」

「あー……」


 もちろん、ティナにも覚えはあった。

 当時九歳。同い年くらいの男の子たちに酷い言葉をぶつけられて、頭の中でぶちんと音が鳴った。

 ティナは一瞬にして彼らに躍りかかり、三人いた全員に平手打ちを思いっきり喰らわしたのだ。

 それはもう、バチーンと音が鳴るほどに。


「ティナが飛びかかっていってさ、肝が冷えたよ、本当に」

「あ、あははははは! だってあいつら、ムカついたし!」

「衝動的に動くの、本当に昔からだよね、ティナ……」

「い、今はそれほどでもないよ?」

「本当かなぁ……」


 ロビが半目でじとっと隣を見る。ティナは誤魔化すように笑って、視線をあさっての方向へと逸らした。


「けど、その後だよね……そいつらが泣いて逃げ帰ったかと思ったら、ガキ大将みたいなやつを連れてきてさ。明らかに年も上だったし……僕は震えが止まらなかった」


 ほんのわずかに声に滲んだ恐怖が、その時の記憶とともに蘇る。


 田舎者に田舎者と言ってなにが悪い。空気が臭くなるから帰れ──


 そのガキ大将は、そう言い放った。


「相手はティナの倍もありそうな奴だったのにさ。ティナは当然のように、またキレたよね」

「あ、あは……っ」


 二人はしばし無言のまま、当時の光景を思い返す。


 ティナはガキ大将に飛びかかり……そして殴られて、それでもまた飛びかかった。


 ──ティナちゃんー!!


 ロビが泣きながらティナの名を呼んだ。

 ティナは鼻から血を流し、それでも『ロビに謝れ!!』と言って譲らなかった。


 自分が傷つくことなど、どうでもよかった。

 許せなかったのは、大切な人が侮辱され、心を踏みにじられたという──ただ、それだけ。


「いやー、私も若かったよね。あの頃は血の気が多かったのかも!」

「今も変わってなさそうだけど……」

「やだなぁ、そんなわけないよ! すぐには手を出さないようにしてるし!」


 ティナの無邪気な声に、ロビは乾いた息を漏らす。


「結局あの時は、兄貴が来てくれたから助かったけど」


 別行動していたブラジェイが騒ぎを聞きつけて、駆けつけてくれたのだ。

 相手の方が大きかったが、そんなことは関係なかった。ブラジェイは迷いなく、ガキ大将を地に伏せさせた。


「あはは、そうだったねぇ……なんかごめんね! 私からケンカ吹っかけといて、負けるなんて情けないなー」


 ティナは頭を掻きながら笑う。けれど、ロビの視線はその顔に静かに注がれていた。


「情けなくなんてないよ。ティナが誰よりも優しくて強いって……僕はわかってる」

「……ロビ」


 ティナは、ふと息をのんだまま、言葉を失った。

 あの時は、ただロビを傷つけたくない一心だったが、それは結局──彼を深く傷つけ、泣かせてしまう結果にしかならなかった。


 だが、そんなティナの気持ちを、ロビはちゃんと理解していたのだ。

 今の言葉が、その証。


 胸の奥がきゅっと、あたたかく締めつけられる。

 切なさとも嬉しさとも言いきれない想いが、静かに心に満ちていく。


「僕は泣いているだけで、なにもできなかった。だから、変わろうって……その時思ったんだ」


 まだ少し残暑の残る秋風が、そっと頬を撫でていく。草の香りと、土の匂いと、どこか遠くで鳴く小鳥の声。すべてが、やさしい。


(そういえば……あの後からだ)


 ティナの胸に、ふわりと思い出が巡っていく。


(ロビが私のこと〝ティナちゃん〟じゃなくて〝ティナ〟って呼び始めたのも……あまり泣かなくなったのも)


 いつの間にか、ロビはティナより背が高くなり、声も低くなって、大人びていった。

 だけどその目だけは、昔と変わらず──優しいままだった。


「うん、ロビは変わったね! すっごく男らしくてかっこよくなった」


 そう言うティナの声は、ほんの少しだけ誇らしげだった。

 ロビは目を伏せて、照れ隠しのように苦笑いする。


「……兄貴に比べたら、まだまだだけど」

「そんなことないよ! ロビにはロビのいいとこ、いっぱいあるでしょ! 私、ロビのこと好きだよ!」


 その言葉が、朝露のように空気を揺らす。

 ロビの肩がぴくりと震え、喉仏が上下する。


 前方には小川見え始めた。陽の光を受けて、きらきらと水面がきらめいている。

 昔、何度も遊んだ場所だ。飛び石を渡って、魚を追いかけて、ふざけあって。


 ロビが視線をティナに向け、意を決したように言葉を紡いだ。


「ティナ、僕も──」

「あー、なつかしー! ここでもよく遊んだよねっ」


 手を離してはしゃぐように駆け出したティナは、すっかり思い出に夢中になっている。

 ロビは口を閉じた。言いかけた言葉が、風にさらわれて消えていく。

 けれど、彼の目にはわずかな後悔と、それでも優しい笑みが浮かんでいた。


「ん? 今なんか言おうとした?」


 立ち止まって、ティナが振り返る。目を細め、首を傾げる仕草がどこか小動物のようだった。

 ロビは少し間を置いてから、微笑を浮かべ、ただ首を横に振る。


「ううん、なんでもないよ」


 それきり、ロビは聞き役に回り、そろって小川へと歩き出した。

 もう一度手を繋ぎ直して。心のどこかに、まだ言葉にならない想いをそっと隠しながら。



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