264.それはどういう意味かなー!?
その夜、村に来た時はいつもそうしているように、ティナはブラジェイの家で夕食をごちそうになることになった。
グリレルの夕暮れは早い。陽が落ちると同時に、村の灯りがぽつりぽつりとともり出し、草木も家々も穏やかな夜の支度を始める。そんな空気の中、ブラジェイの家からは、もう温かなにおいが漂っていた。
ダイニングの空間に立ち込めるのは、焼きたてのパンの香ばしさと、森から採ってきたキノコのスープから立ちのぼる、やさしい湯気。空腹を誘う匂いが鼻孔をくすぐり、心の底までじんわりとほどけていく。
キッチンから現れたのは、両手に大鍋を抱えた、ブラジェイとロビの母親だ。その佇まいからはどこかおっとりとした優しさがにじんでいて、ティナも彼女のことが大好きだった。
その隣では、白髪の祖母が腰を伸ばし、焼きたてのパンを手際よく切り分けている。年齢をまったく感じさせない動きは、もはや熟練の技の域だ。
「手伝うよ、母さん」
ロビがごく自然に手を差し伸べて、母の手元を支える。
何気ない光景だが、見ていると、どこか胸が温かくなった。
「ロビって気が利くよねー。誰かさんとは大違い!」
ティナがすかさずからかうように茶々を入れると、すかさず返ってきたのは、ふてくされたような声だった。
「うっせ。俺は今日、死ぬほど働いてんだよ」
その言葉に、ロビは少し呆れたような、でもどこか張り合うような声音で返す。
「僕だってめちゃくちゃ働いたよ。自分だけが働いてると思わないでよね、兄貴」
「そーだそーだー! みんな働いてるんだよー!」
ティナも調子よく乗っかって、場の空気はさらに賑やかに。
ブラジェイが舌打ちをひとつすると、それを見たシャノンは、「ブラジェイの負けね!」と腹を抱えるようにして笑っていた。
そんな喧騒の中、ロビが静かにスープ皿を手に取る。
ぞして鍋の前で、ティナの好みを思い出すようにしながら、丁寧にキノコを選んでよそう。
「はい、ティナの分」
「え? あ、ありがと」
ティナは一瞬だけきょとんとして──それからぱっと笑顔を咲かせた。
その皿の中には、色とりどりのキノコがふんだんに浮かび、一番上には鮮やかなハーブがふわりと彩りを添えている。
「わぁ! 私の好きなキノコ、いっぱいよそってくれたの!? ありがとー、ロビ!」
無邪気な声に、ロビも照れくさそうに口元を緩める。
だが次に彼がよそったスープは、ごくごく普通。どう見ても、ティナの皿だけが特別だ。
「ロビったら、ティナにだけ特別? やーさし〜〜〜」
シャノンの茶化すような声に、ロビはふいと視線をそらす。
「別に、普通だし」
「うんうん、昔から優しいんだよね、ロビは!」
ティナが納得顔で頷いていると、彼らの母親が穏やかに笑いながら皿を差し出してくれた。
「ティナちゃん、たくさん食べていってね」
「わぁいっ! おばさんのごはん、楽しみにしてたのー!」
元気いっぱいに答えたティナの声が、部屋の隅々まであたたかく響いていく。
そのとき、不意にロビが少しだけ照れをにじませた声で口を開いた。
「ティナってほんと、こっち帰ってくるたび、うるさくなるよね」
「なにそれ、失礼過ぎない!?」
ティナはぷくっと頬を膨らませ、勢いよく立ち上がる。言葉を返そうとしたその時。ふと、隣に立つロビを見上げて、思わず動きを止めた。
目の高さが、自分よりずいぶん上だ。
ティナは自分の頭のてっぺんに手を乗せ、そのまままっすぐ腕を伸ばしてロビの胸元へ。ちょうどそこに触れたあたりで手を止め、じっと見つめる。
「ま、また伸びてる……っ!」
さっきまで怒っていたことなど、すっかり忘れているティナだ。
ロビはというと、そんなティナの手を胸に感じながら、ほんの少しだけ得意げなような、くすぐったそうな笑みを浮かべていた。
「ロビってば、こっち来るたび背ばっか伸びてさー。十八歳なのに、まだ伸びちゃうの!?」
「ティナが縮んだんじゃない?」
「ちょ!! それひどーーい!!」
横から爆笑しながら割って入ってきたのは、ブラジェイだった。
「ぶははは!! ティナが……十九で、ちぢ……縮ん……ぶっははは!!」
「うっさい、ブラジェイ!!」
ティナは顔を真っ赤にして怒鳴り返すと、元凶であるロビをジロリと睨み上げる。
だが、ロビはまったく怯む様子もなく、さらりと言った。
「ごめんごめん。大丈夫、小さいティナもかわいいよ」
「もーー、私より年下なのに、子ども扱いしてー!」
「ははっ」
ロビは穏やかな笑みを浮かべながら、そっとティナの頭に手を置いた。
くしゃっと撫でられる髪に少しむっとしながらも、その仕草にこもるやさしさがくすぐったい。
「はいはい、みんなもうやめなさいよ。ほら、スープ冷めちゃうでしょ」
シャノンがパンパンと手を叩いて場をまとめる。
いつものやり取り。けれど今夜はどこか──ほんの少しだけ、特別に思えた。
ティナ、ブラジェイ、ロビ、シャノン。
そして、あたたかな彼らの母と、達人のような祖母。六人が食卓を囲むこの風景は、子どもの頃から何度も繰り返されてきた、懐かしくて安心できるひととき。
けれど今夜、ティナには気になることがあった。
「ね、ブラジェイ」
ティナがふいに声をかける。
ニヤリと口元をゆがめながら、挑発するように言った。
「渡さないの? 例の、アレ」
「……」
ブラジェイは明らかに不機嫌な顔で手を止め、ティナを鋭くにらんだ。
「おめぇ、ほんっと空気読まねぇな」
「読んでるよ? でもわざとだよ?」
悪びれもせず、にひっと笑ってみせるティナ。
その横顔を見て、ロビは苦笑を浮かべ、シャノンは小首をかしげた。
「おめぇらの前で渡せられっかよ」
ブラジェイは気をそらすようにパンをかじり、低くぼやきながら答える。
「あ、照れてる~」
「うるせ」
そのやり取りに、食卓のあちこちからくすくすと笑い声がこぼれる。
シャノンだけがきょとんとしたまま、首を傾げた。
「え、なになに? なんか私だけ知らないんだけど」
「いいんだよ、おめぇは知らねぇで」
「なによそれ、気になるじゃない!」
それでもブラジェイは、スープに集中するふりをして視線をそらしている。
スプーンを持ったまま、ティナはむふふとシャノンの反応を見守っていた。
隠しきれないいたずら心が、表情の端々から溢れ出す。
(ああー、言いたい! シャノン、どんな反応するんだろー!)
そんな様子を見ていたのロビが、さっとティナにパンを差し出した。
「あ、ありがと、ロビ!」
「うん。もう、しゃべる前に口に入れといた方がいいと思って。突っ込んでおきなよ」
「それはどういう意味かなー!? ロビ~~!?」
「ははっ」
笑い声がぽんと弾け、焼きたてのパンの香ばしさがふわりと鼻をくすぐる。
湯気の向こうに見える、みんなの笑顔。そのひとつひとつが、ティナの胸の奥に、そっと染み入ってくる。
この風景は、きっと忘れない。
どんな未来が来ても──一生、心のどこかで。
それはまるで、心に降り積もるような予感だった。




