262.似合わない!!
過去に思いを馳せていたティナは、静かに息を整えながらカルティカの刃をそっと撫でた。
その手つきは慎重で、けれど迷いはない。使い込まれてほんの少し光沢を失いかけた銀の刃が、光の加減で柔らかく反射する。彼女の指先が触れるたび、まるで剣がそれに応えるように、静かな気配を放っていた。
カルティカ──それは実用的な武器であると同時に、儀式の場でも使われる神聖な短剣だった。重さは手に馴染む程度で、鞘は繊細な細工がほどこされた美しい装飾品。何度見ても、見飽きるという感情とは無縁の美しさがあった。
その鞘をそっと収めると、不意に背後から足音が近づいてくる。
「ティナ。なにをしているんだい?」
声に振り向くと、見慣れた笑顔がそこにあった。
「あ、クロエ!」
現れたのは、フィデル国における五聖政務官の一人──クロエ・アグライア。カジナル領を預かる、政治の中枢に立つ人物だ。
ティナより六歳年上の彼女は、現在三十五歳。ティナが幼い頃から庁舎に出入りしていたこともあり、クロエの存在はずっと身近だった。
頭が切れて、面倒見がよくて、いつも自然体で接してくれる。そんなクロエを、ティナは変わらずに尊敬している。
クロエはゆっくり歩み寄ってくると、ティナの手元を覗き込んで、目元をやわらかくほころばせた。
「ああ……カルティカかい。丁寧に使っているようだね」
「当然! 大事なものだからね!」
ティナがにこっと笑って頷くと、クロエは懐から煙草を取り出した。マッチの火がぱちりと音を立てて灯り、その煙がふわりと風に流れる。
その仕草だけで、彼女がちょうど一息つきに来たのだとわかった。
クロエはその卓越した頭脳を買われて、十八の頃にはすでに政務官の補佐として働き始めていた。若くして多くの信頼を集め、前政務官が引退する際には、なんと満場一致で後任に選ばれたという逸話がある。
二十七歳という若さでの就任だった。
煙草を軽くふかしながら、視線をカルティカに向けるクロエ。その横顔はどこか懐かしさを帯びていて、それを見ているうちに──ティナの心に、ふと一つの記憶がよみがえった。
この剣を、初めて手にした日。
それは、ちょうど十年前のことだった。
***
十九歳だったティナは、母ミュートに頼まれ、いつものように庁舎の階段を駆け上がっていた。目指すは、ひときわ大きな扉。五聖政務官たちの執務室である。
ノックの音に許可の声が返り、扉を開ける。その奥には副官だったクロエが一人いた。
「失礼します! 母に頼まれて、この書類を届けに来ました!」
「ご苦労だな、ティナ。受け取るよ」
手を差し出され、ティナは素直に書類を手渡す。
「あれ? クロエだけ?」
「今日からベリオン様は、五聖協議会に行かれているからな」
「あー、円卓だったっけ。じゃあしばらくクロエは大変だね。用があったらなんでも言ってね!」
ティナは、クロエが十八歳でこの庁舎にやって来た頃から、彼女を知っている。母の仕事にくっついて通っていたからだ。
だからだろう。クロエはティナをただの子ども扱いせず、妹のようにかわいがりながらも、いつも対等な目線で接してくれていた。
頭がよくて、気っ風も良く、大胆で包容力もある。そして細かいところまでちゃんと気がつく。そんなクロエのことを、ティナは心から慕っていた。
「ちょうど呼ぼうと思っていたところだったんだ。グリレル村に行ってもらおうと思っていてね」
「グリレル!? 行くよ、行くー!」
待ってましたと言わんばかりの返事に、クロエは笑いながら一枚の書類を手渡す。
「ふふ。そう言うと思ったよ。この書類を村長へと届けておくれ」
「りょーかい!」
ティナは書類をバッグに丁寧にしまい、親指だけを折った手を掲げる挨拶をシュピッと決める。
『よっ』とでも言いたげなティナのそれは、礼儀と愛嬌の間を突っ走るような独特の挨拶だ。
「じゃ、私はこれで!」
踵を返そうとしたその瞬間、クロエの声が背中から飛んできた。
「待て。もう一つ頼まれてほしいんだが」
「ん!?」
振り返ると、クロエが木の箱を取り出してこちらへと差し出す。
「ブラジェイに頼まれていた物だ。ようやく出来上がって届いてね」
手渡された箱を両手で抱えたティナは、その重みと感触に、自然と好奇心が湧き上がる。
「なに、見てもいい?」
問いかけると、クロエは軽く頷いた。
「別にかまわんだろう。そいつを、ブラジェイに渡してやってくれるか」
そっと箱の蓋を開けると、中には見事な装飾が施されたジャンビア系の短剣が静かに収まっていた。
流れるような曲線と、繊細な意匠。だが、どこか華やかすぎるその一振りに、ティナは思わずぽろりと口にする。
「これ、ブラジェイが装備するの!? 似合わない!!」
本音がするりと口をついた瞬間、クロエが弾けるように笑った。
「ははは、そうだな! だが安心しな。それを使うのはブラジェイじゃないよ」
「え?」
「シャノンだよ。おそらくね」
その名に、ティナはふっと納得したように目を細める。
あの無骨な男でも、そんな洒落た真似をするのか──と、少しだけ意外に思いながらも、短剣を丁寧に箱へ戻し、そっとバッグの奥に仕舞い込んだ。
それは、婚約者のためだけに作られた、特別な一振りだったから。




