260.どうして、泣かないの……?
ティナはひとり、研ぎ終えた短剣──カルティカを膝の上に置き、使い込まれて薄くなった刃をゆっくりと撫でた。
光の反射を見つめながら、心の奥にずっと仕舞い込んできた疑問が、そっと浮かび上がる。
(私がブラジェイを好きになったのって、いつだったのかな……)
四人で肩を並べて過ごした、あの頃。
ティナにとって、ブラジェイはただ気の置けない仲間の一人で、特別に男として意識したことはなかった。
ロビも、シャノンも、そしてブラジェイも、みんな大切で──ただ、大好きだった。
けれど思春期に差し掛かる頃、いつからか心のどこかで「ブラジェイにはいい人がいるのかな?」と感じる瞬間はあった。
でもそれ以上深く考えることもなく、まして嫉妬なんて感情も生まれなかった。
(ああ……でも、あの時のブラジェイは…… )
ふっと胸が軋む。
平静を装ってはいたけれど、その裏でどれほど苦しかったのだろう──
カルティカの刃をなぞる指先に、ひやりとした感触が残った。
思いは、ゆっくりと十年前の夜へと戻っていった。
まだティナたちが十七だった頃の、記憶へと。
***
ブラジェイは、シンシアという少女と付き合い始めていた。
シンシアは、幼い頃からひどく体が弱かった。
八歳から十歳までの間、療養のためにカジナルシティからグリレル村へ来ていて──控えめに笑う姿を、みんなで囲むように見守った。
一緒に外で走り回ることは叶わなくても、その場にいるだけで、自然と誰もが優しくなった。
だから、みんなシンシアが好きだった。
病がいったん落ち着いて、シンシアがカジナルに戻ったと聞いたときは、ほっと胸を撫で下ろしたものだ。
同じ街で元気にいるのだと、もう心配しなくていいのだと──そう、思っていた。
けれど、十七の年。
ティナの知らないところで、ブラジェイは再会したシンシアと、静かに付き合い始めていた。
それを知ったのは、皮肉にも、彼女の死を悼む葬儀の場だった。
病はゆっくりと、けれど確実に、静かに彼女の身体を蝕んでいたのだ。
同じ街にいながら、ティナはなにも知らなかった。
あの優しい笑顔の少女が、すぐそばで苦しんでいたことさえも。
あまりにも静かな終わりで、あまりにも急な別れだった。
シンシアの葬儀で、喪服に沈む母親が、ブラジェイに声をかけた。
「うちの子と付き合ってくれてありがとう……あなたといる時は、本当に幸せそうな顔をしていたのよ」
細い声でそう告げたとき、ブラジェイは目を伏せ、小さく息を吐いた。
「なにもしてやらねぇですまねぇ」
それだけを絞り出すように言った。
うつむく姿を見て、胸の奥がきしむように痛んだ。
ティナも、ロビも、シャノンも、やせ細ったシンシアの顔を見て涙を止められなかった。
けれど──
誰よりも涙を流す資格のあるブラジェイだけは、泣かなかった。
むしろ強く、みんなの背中を叩いて。
「泣くなとは言わねぇ。でも、ひとしきり泣いたら、前向けよ」
その声は、優しいとも厳しいともつかない、いつもの調子で。
凪いだ湖面のように静かで、ひたすら真っ直ぐだった。
だからこそ、ティナの胸を痛烈に突き刺した。
言われた通りに泣いて、泣き疲れて、みんなは少しだけ前を向いた。
でも、その中でひとりだけ、いつも通りの顔をしていたブラジェイの姿は──
どこか、ひどく孤独に見えた。
(自分が一番つらいはずなのに……)
誰よりもそばにいたのは、ブラジェイだったのだ。
たった二ヶ月間の関係だったとしても、それは紛れもなく彼の恋だったのに。
──あの日の夜。
葬儀の帰り道で、ティナは街の南にある湖へと足を向けた。
胸の中に澱のように溜まった想いを吐き出したくて。
けれど、湖畔のほとりでひとり座るブラジェイを見つけた瞬間、その声を飲み込んだ。
月を映した湖面に、彼の影がただ静かに沈んでいた。
その背中は、あまりにも無音で、呼吸すら止めているように見えた。
声をかけたら、壊れてしまう気がして。
だから、ティナも少し離れたところに腰を下ろした。
風が揺らす草の音。
遠くで鳴く鳥の声。
それだけを聞きながら、月を見上げる。
湖に浮かんだ淡い光が、ブラジェイの表情をわずかに照らした。
そっとその横顔を盗み見るも、彼は泣いてはいなかった。
ティナは思わず、ぽつりとつぶやくように問いかける。
「どうして、泣かないの……? 好き、だったんでしょ……」
風に乗った問いかけに、ブラジェイはしばらく沈黙していた。
湖面に映る月を、まるで別のものに見つめるように。
そして低く、呟く。
「……泣いても、シンシアは戻ってこねぇよ」
そうだけど、という言葉をティナは呑み込む。
「けど……十七で逝くなんて、早すぎだぜ……」
それがどれほど残酷な真実か、胸が痛いほどわかっていた。
漏れそうになる嗚咽を呑み込み、唇を噛む。
「俺らは……あいつの分まで、しっかり生きねぇとな」
「……うんっ」
返事をしながら、涙が流れて、息が詰まるほど苦しかった。
夜風がすっと通り抜けていく。
しばらくして、ブラジェイが立ち上がった。
ポケットから小さななにかを取り出し、静かに湖へ投げ入れる。
月が砕けるように波紋が広がった。
きっとそれは、シンシアとの思い出の欠片だった。
言葉にしないまま、そっと手放した、小さな別れ。
そのままなにも言わずに踵を返し、すれ違いざま、ティナの肩をぽんと叩く。
「……帰るぞ。女が遅くまでこんなとこにいるもんじゃねぇ」
その声色は、まるで日常の中にいるようだった。
ティナは少しだけ遅れて立ち上がり、彼の背を追いかける。
二人の足音が並んで、夜の道に溶けていく。
誰もなにも言わない。
だけどその沈黙が、少しだけ救いのように感じられた。
風が草を揺らし、虫の声が遠くで響いている。
月はなおも湖の上にあり、二人の影を細く伸ばしていた。
ティナはふと、ちらりとブラジェイの横顔を見上げる。
無言で前を見ているその表情は変わらない。でも、涙はなかった。
けれどそのまなざしは、遠いなにかをずっと探しているようで。
(泣いたって、いいのに……)
心の奥がきゅうと締め付けられる。
「……寒くない?」
まだ寒い季節には遠い。けれど、聞かずにはいられなかった。
「寒くねぇよ。寒いのか?」
「さぁ……どっちだと思う?」
そう返した声が、思ったよりもかすれていた。
彼の肩越しに見える背中が、どこまでも遠くて寂しくて、見ていられなかった。
一緒に寒がりたかった。
ただそれだけなのに、彼はいつも、なにも背負わせてくれない。
「知らねぇよ。寒かったら言え。上着貸してやる」
「言ったら本当に貸してくれるの?」
「……貸すっつってんだろ」
ぶっきらぼうなその声が、優しくて、胸に響いて。
こんな風に、当たり前の顔で人を気遣える人だから、きっとシンシアも惹かれたのだろう。
この時はまだ、彼を特別だと呼ぶ感情は、ティナの中に芽吹いていなかった。
ただ隣にいることが、自然で安心を感じる存在だった。
月明かりの道を、二人はシンシアを偲びながら、静かに並んで歩いていった。
ブラジェイとシンシアの物語が短編にあります。
『海』
https://book1.adouzi.eu.org/n1522dz/
下のリンクからも飛べますので、よろしければ。
古い作品なので、ちょっと読みづらかったらすみません><




