258.幸せそうな奴ら見ると、いい酒になるな
店にフローラが姿を見せたその瞬間、カールの胸の奥でなにかがひっそりと、音もなく波紋のように広がった。
フローラと別れてから、もう三年半が過ぎていた。
今では王宮で顔を合わせれば普通に会話もするし、業務でのやり取りだってそつなくこなしている。過去のことは、すでに胸の奥深くにしまったはずだった。
けれど──今日のフローラは、少し違った。
一度宿舎に戻って着替えてきたのだろう。きっちりとした制服ではなく、柔らかな色合いの私服姿で現れた彼女は、どこか落ち着いた雰囲気をまとっていた。
久々に見る私服姿。以前よりも少し大人びたその佇まいに、ふと時間の流れを思い知らされる。
彼女が店の入り口に足を踏み入れた、その瞬間だった。
店内の灯りがふっと落とされ、室内のざわめきが一拍遅れて沈む。どこからともなく、ハープの柔らかな音色が流れ始めた。たどたどしくも心のこもった旋律が、木の天井に反響しながら、温かく場を包んでいく。
それはまるで、戦場の片隅に現れた、幻想の一幕のようだ。
「わぉ……すごくロマンチックだ」
ジークが隣で、感心したようにぽつりと漏らす。
カールも完全に同意した。
「こんなムード作れるの、支援隊らしい気配りだよな」
言葉にしながらも、胸の奥でほんのりと甘く、少しだけ切ない感情が次々に重なっていく。
そのとき、カウンター脇に控えていた数人の騎士たちが、すっと立ち上がった。
彼らの手には、それぞれ一輪ずつの花──派手ではないが、丁寧に選ばれた秋の花々。
その動きに続くように、別の騎士たちも席を立ち、音もなく店内中央に沿って整列していく。
左右に並んだ彼らの姿は、どこか儀式のような静謐さを帯びていた。手に持つ花だけが、場にそっと色を添えている。
「え……なに?」
戸惑いの声が、フローラの唇から零れる。
けれどすぐに、隣にいた同僚の女性がにこりと笑って、小さく背中を押した。
そのやわらかな仕草に促され、フローラは不安げながらも、ゆっくりと一歩を踏み出す。
騎士たちは誰も言葉を発さない。静かに、まっすぐに、彼女を見つめていた。
その目には緊張ではなく、あたたかな敬意と祝福の色が宿っている。
ゆっくりと──フローラは、彼らの作った通路を進みはじめた。
花を掲げた騎士たちは、その場から動かず、ただその歩みを見守る。
柔らかな光が彼女の髪に反射し、淡く染まった私服の裾が揺れていた。
それはまるで、式典のようでもあり、祝福の儀式のようで。
支援統括隊が彼女に贈る、ひとつの敬意のかたちだった。
作られた道の先。店の中央には、一人の青年が待っていた。
「アランさん……?」
呟くように呼ばれた名に、青年──アランは、深く頷く。
「フローラ。今日、君にここで伝えたくて……」
彼は照れたように笑みを浮かべた。
その姿を、店の灯りが優しく照らす。
居酒屋のざわめきが、潮が引くように静まっていった。
「フローラ」
彼女が驚いたように目を見開きながら、彼を見上げる。
「俺たち、最前線には出ないけどさ。物資の手配に、隊の調整に、山みたいな報告書の処理に……毎日毎日、走り回って、どこかでなにかが足りなきゃ、真っ先に呼ばれて。俺らの仕事って、派手さはないけど、誰かがちゃんとやらなきゃ、回らないよな」
その声には確かな想いがこもっていた。
言葉を選びながら、それでも真正面から、彼は続ける。
「そんな日々の中で──一緒に頭を抱えて、一緒に笑って、一緒に朝まで働いて……気づいたら、君がいるだけで、頑張れるようになってた」
フローラは、そっと唇に手を当てながら、じっと彼の瞳を見つめていた。
「君は、誰よりも気が利いて、誰よりも仕事が早くて、そして……誰よりも、人に優しい。支える側の俺たちにとって、君は……もう、太陽みたいな存在だ」
その言葉に、通路を見守る支援隊の仲間たちが、静かに頷いている。
彼らもまた、日々の中でフローラに何度も救われてきた者たちなのだろう。
「そんな君と、これからも──ずっと、同じ毎日を過ごしていきたい。うれしいことも、大変なことも、どうしようもないトラブルも、全部一緒に支え合って乗り越えていけたらって、心から思ってる」
そう言うと彼は跪き、小さな箱をそっと取り出した。
中から現れた銀の指輪が、かすかに光を反射していた。
「フローラ。俺と──人生を共に歩んでくれませんか」
時間が静かに止まったかのようだった。
フローラはしばらく言葉を失ったまま、ただ目の前の男を見つめていた。
居酒屋中の視線が二人に注がれ、時間だけがそっと流れていく。
やがて、フローラが微笑んだ。ほんのり目尻を潤ませながら、そっと頷く。
「……はい」
その小さな返事が届いた刹那、店内の空気が歓声とともに弾け飛んだ。
「うぉおおおおー!!」
「やったー!」
「結婚おめでとう!!」
騎士たちが掲げていた一輪の花が、次々とフローラのもとへ差し出されていく。
「いつもありがとう、フローラ!」
「本当におめでとう!」
花はひとつ、またひとつと手渡され、やがて両手いっぱいの花束となっていく。
それは、支援隊の仲間たちの想いを束ねた──ひとつの大きな花束となった。
フローラの指へと指輪が嵌められる。
アランは立ち上がり、彼女の手をしっかりと取った。
「アランにフローラ! おめでとう! 今夜は……この二人に乾杯だー!!」
無数の杯が高く掲げられ、音楽と歓声、そして笑い声が入り混じって夜に溶けていく。
──その喧騒の端で、カールはひと口、ビールをあおった。
(……そっか。フローラが──結婚、か)
心の中でだけ、静かにつぶやく。
表情はいつも通り笑ったまま。瞳の奥には、どこか穏やかな光が宿っていた。
「うわー、いいなー! 僕も小隊長に昇進した時には、プロポーズかな?」
隣でジークが、ちゃっかりと自分の話に持っていく。
「お前はまず、付き合うとっからだろ?」
「ははっ、確かに!」
「順番間違えんなよ!」
「それはもう!」
思わず笑いながら、カールはジークと杯を交わす。
遠くで祝福の輪に包まれる二人を、誰もが笑顔で見つめていた。
……そして、なによりも幸せそうなのは──言うまでもなく、あの二人だった。
「……幸せそうな奴ら見ると、いい酒になるな」
カールはぽつりと呟いて、再び杯を傾けた。
店内の温かく賑やかな空気が、静かにカールの胸にも広がっていった。
そしてこの一年後。
カールはとうとう、念願の将へと昇進したのだった。
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