257.お前、本当に褒め上手だよなぁ!
夜の帳がすっかり降りていた。鍛錬を終えたカールが静かに外へ出ると、空には星がぽつりぽつりと灯りはじめていた。空気にはわずかに熱の名残があるものの、昼間の喧騒はもう遠く、どこか肌を撫でる風が心地いい。
独身用の宿舎へと続く帰り道。その途中に、ほんのりと灯りをにじませている一軒の居酒屋が見える。夏の終わり、貴族地区に新しく根を下ろしたその店は、今では騎士たちのたまり場になっていた。
元は一般地区にあった庶民向けの店だ。カールが何度も足を運んで信頼を重ね、ついには店主を説き伏せて、ここに構えさせた。馴染みの店が近くにできたのは、彼にとってささやかな誇りでもある。
宿舎でも申請すれば夕食は出るが、タイミングを逃せばそれも叶わない。訓練や任務の後、あるいは気の置けない部下や同僚との語らいを求めて、カールはたびたびこの店に足を運んでいた。すぐ近くでくつろげる場所がある。それは騎士として忙殺される彼にとって、なによりもありがたいことだった。
「──あれ? カール隊長。今、帰りですか?」
声の主に振り向けば、見慣れた青年がそこに立っていた。明るい瞳に笑顔を浮かべているのは、今日から正式に班長へ昇進したばかりのジーク。場の空気を読むのが抜群にうまく、言葉も巧みに褒め上手──カールが一目置いている部下のひとりだ。
「ジークか。またデートか?」
軽口まじりに問いかけると、ジークは首をすくめて笑う。
「いやー、デートっていうのかなー。僕は彼女のこと、好きですけどね!」
そう言って春風のように笑うジークを、カールは気に入っている。
「いい感じなんだろ? さっさと告白して、付き合っちまえばいいのによ」
「いやぁ。彼女は今、夢に向かってまっしぐらだから、邪魔したくなくって」
素直に相手のことを想えるジークの姿に、カールの口元がふっと緩む。そんなやり取りのなか、ジークがふと思い出したように前方を指さした。
「ところで隊長、今日も寄ってくでしょ?」
指先の先には、ちょうど明かりがにぎやかに瞬くあの店がある。
「おう。昇進祝いに奢ってやっかな」
「えっ、マジですか!? やったー! 今日は一番高いやつ頼んでも怒られないやつですね!」
思いきりはしゃぐジークは、まるで祭りの日の子どもだ。楽しげな様子に、カールも肩をすくめて笑った。
「調子に乗んなよ。高いのは一杯だけな!」
「それでも十分です! いやー、隊長って太っ腹で最高っ! 」
頭の後ろで手を組んだジークは、満面の笑みを浮かべたまま隣を歩きながら、勢いそのままに続ける。
「いや、でも太っ腹って言っても、実際はもちろん太ってないですよ。むしろ腹筋バッキバキで、何あれ、服の下、鋼板でも入ってんのかってくらい硬いし……肩幅とか腕とかもマジで神バランスだし、顔は男前で完璧人間じゃないですか!」
驚きのようなものが、ほんの一瞬だけ、カールの目元をかすめた。思いがけないほど真っすぐな言葉に、不覚にも胸の奥が温かくなる。気恥ずかしさを紛らわすように、カールは小さく息を吐き、目を細めた。
それでもまだまだジークの言葉は止まらない。
「しかも力だけじゃないんだよなぁ。実戦になるとマジで速いし、判断も的確。ぶっちゃけ、俺たち隊員から見たら、もう将クラスって感覚なんで! ていうか、背中預けて安心できる人って、隊長以外いないですもん」
そこまで言い切られると、さすがのカールも照れ笑いを隠せなかった。
「はは! お前、本当に褒め上手だよなぁ!」
褒め上手と言われたジークは、急に真面目な表情を浮かべる。
「褒めてないよ。全部本当のことだから」
不意に声を落とし、真っ直ぐに言われたその一言。思わずカールは歩みを少し緩め、横顔でジークを見た。そして──静かに、言葉が零れる。
「……今、お前に会えてよかったぜ」
ぽつりと、言葉がこぼれた。
信頼してくれている部下がいる。それだけで、今日味わった悔しさと不甲斐なさが、解けていった気がした。
「よっしゃ! 高い酒、二杯まで許してやる!!」
「え、なんで!? でもやったー!」
理由は分からなくとも、ジークは素直に喜んでいる。カールは小さく笑いながら扉を押し開けた。
木の香りがまだ新しい、落ち着いた内装の中に、ざわざわとした活気が広がっていた。騎士たちの笑い声、杯を交わす音、漂う炭火焼きの香ばしさ。
まるで街の一角を切り取ったようなその空間は、貴族地区にあることを一瞬忘れさせるほど庶民的で、居心地がいい。
「ああ、いらっしゃい、カール! 空いている席に座っておくれ!」
店の女主人が元気な声を上げて知らせた。カールが軽く手を上げて応じる。
ざっと見た感じ、空いているテーブルはない。
「今日はやたらと混んでんな」
「昇進祝いで来た人が多いからだろうなー」
「相席させてもらおうぜ、ジーク。いいだろ?」
「もちろん!」
奥には個室もあったが、カールはホールの賑やかさの中で飲むのが好きだ。こういう場で知り合った騎士も多い。初めての相手でもカールは平気で話しかけるので、顔見知りはどんどん増えていくばかりだ。
「第五の隊長、カールさんですよね! 有名ですよー、どうぞどうぞ!」
空いていた席に声がかかる。勧められるままにカールとジークは着席し、周囲の騎士たちと自然に言葉を交わす。
「俺らは、支援統括隊の平騎士です。戦闘隊とはなかなか深く関わらないですよねー」
「本当だな。統括にはめっちゃ世話になってるんだけどなー。一緒に訓練はしねぇもんな!」
酒を酌み交わしながら、ゆるやかに会話が続く。そのうちの一人が、そっと声をひそめた。
「実はこの後、仲間がプロポーズするんですよ。ここにいる騎士たちにもサプライズの仕掛けを頼んでいるんで……参加してもらってもいいですか?」
声を落としながらも期待を含んだその目に、カールはニッと笑う。
「へぇ、気合い入ってんな。面白ぇ、いいぜ!」
「もちろん、僕も協力するよー!」
カールもジークも、即答で頷いた。男たちは一気に顔をほころばせ、なにやら段取りの確認を始める。
と、そのとき──扉の鈴がやさしく揺れ、数人の女子隊員が現れる。
中心にいた女性の姿に、カールの目がほんの一瞬だけ止まった。
誇り高く、清廉で、どこか儚さを帯びた佇まい。
そこにいたのは、昔のカールの彼女だった人物──フローラだった。




