256.とんでもねぇ早さで強くなっていきやがる!!
秋が深まり、街の風に冷たさが混じり始める。
アンナが二十三の歳を迎えると同時に、恒例の秋の改編が行われた。
軍内の人事が大きく動くこの時期に、多くの者が期待と不安を抱えて名を連ねる中、カールの名は──将の枠にはなかった。
「くそ、今年こそはって思ってたのによ……」
ふてくされたような声でそう言いながらも、唇を噛み締める彼の姿は、怒りというより、悔しさの色が濃かった。
将たちの配置は据え置き。カールも依然として第五軍団の隊長のままだったのだ。
終業後の静かな廊下。珍しく陰を背負うカールへと、トラヴァスは声をかける。
「今の将たちは優秀だからな。余程のことをせねば、入れ替わりはない。仕方のないことだ。あまり気にするな」
「……おお」
カールは目をそらし、小さく返すとそのまま闘技場へと足を運んだ。
そして、誰もいない夜の砂地に立ち、火魔法で照らした明かりの中、黙々と剣を振りはじめる。繰り返し、何度も。誰に見せるでもなく、ただ自分自身のために。
その姿を、闘技場の縁の陰からアンナとトラヴァスが静かに見守っていた。
「さすがのカールも、こたえているようだな」
トラヴァスが呟いた声は、風に紛れるほど低かった。
アンナはそっと息を吐く。吐いた息にほんの少し、季節の冷たさが混じっていた。
「カールは優秀だけど、決定打がなかったのよね。今の将たちはみんな有能だし、変える理由が見当たらないのよ」
そう淡々と言いながら、アンナの心は少しだけ過去に思いを巡らせていた。
アンナは、確かな実力でもって将の座を勝ち取った。誰もが納得し、グレイと共に将の座に昇り詰めていた。
だが筆頭大将という立場を得たのは、アリシアが亡くなったという、不可逆の喪失があってのことだ。
運命の隙間を縫うようにして、その座は巡ってきた。
トラヴァスもまた同じだった。実力は十分だったが、彼が大将に就けたのは、わずか一年でグレイとアリシアという重鎮二人が姿を消す──そんな異常事態があったからこそだ。
平時であれば、これほど早く昇り詰めることはなかっただろう。
今の軍では、大将の椅子はどれも重く、固く、動かない。
誰かが致命的な失策を犯したわけでもないし、誰かが民を救うような大きな功を立てたわけでもない。
だからこそ、変化のないまま時が流れ、名簿は静かに、同じ顔ぶれのまま並び続けている。
「余程特出していなければ、現状では厳しいということくらい、カールも理解しているさ。それでも、焦っているのだろう。アンナが将になったのは二十歳……私は二十二だったからな」
トラヴァスがぽつりと言葉を続け、アンナは小さく頷く。
「今カールは二十二歳だし、思うところはあるでしょうね」
「と言っても私は三月の生まれだから、実質二十三歳での就任と変わらないのだ。焦ることもないのだが」
自嘲を含ませるようにトラヴァスは肩を竦め、アンナは苦笑を見せる。
「そう言いながら、トラヴァスはよくカールに、『早く駆け上がってこい』と言ってるじゃないの。期待に応えられなかったことが、つらいんじゃない?」
軽く問いかけるようなその声に、トラヴァスは一瞬、言葉を失った。そして目を伏せるようにして、小さく息を漏らす。
「そうかも……しれんな」
「だからあんまり急かさないであげてね、トラヴァス。今の立場でも、カールは十分に出世してるんだから」
「……だが私たちがなにを言っても、嫌味にしか聞こえないだろう」
異例の昇進を果たした自分たちに慰められたところで、カールの胸のわだかまりが消えるとは思えなかった。
空はすっかり夜色に染まり、闘技場の灯火が砂の上に揺れている。
カールの剣が振るわれるたび、乾いた音が静寂を切り裂いた。汗が軌跡を描き、無心のまま彼は振り続けている。
その姿を見つめたまま、アンナはぽつりと呟いた。
「……それでも、諦めないのよね。カールは」
「当然だ。あいつは、いつだって前しか見ていない」
「……そういうところ、好きだわ」
その言葉に、トラヴァスの肩がわずかに動く。振り返りかけたが、すぐに言葉で流した。
「それは、個人的な好意か? それとも騎士としての評価か?」
「両方よ。トラヴァスだってカールのこと、同じように好きでしょう?」
アンナが隣を見上げると、トラヴァスは少しほっとしたように頷く。
「……まぁな」
彼の答えに満足したアンナは、視線をゆっくりと戻した。
カールの剣はまだ止まらない。己の限界と静かに向き合いながら、何度も、何度も、打ち込んでいる。肩を上下しながら、孤独な闘志だけを相手に。
「食事にでも誘った方がいいかしら……」
「いや……今は好きにさせてやれ。あいつは自分で切り替えられる奴だ」
「……そうね」
アンナは一拍置き、トラヴァスの判断に頷いた。
やがて、二人の足音が夜の回廊に溶けていく。
残された闘技場には、灯された火の揺らぎと、カールの荒い息遣いだけが残っていた。
カールは一人、剣を構えたまま立ち尽くす。
汗が額から顎へと滴り落ち、土の地面に静かに吸い込まれていく。
ふと、剣を下ろし、上空を仰いだ。そこには、雲間から覗く鈍色の月と、いくつかの星がかすかに瞬いている。
(来年こそはって言っておいて、この体たらくかよ、情けねぇ!!)
吐く息に悔しさがにじむ。胸の奥で抑えきれずに溢れる思いが、熱を帯びたまま喉元に滞っていた。
アンナとトラヴァス──かつて肩を並べた友人たち。
彼らは今や誰もが認める将となり、あり得ない速度で階段を駆け上がっていった。
カールも、あの背中に食らいついていけると信じて疑わなかった。事実、隊長までの昇進ならば、彼らに決して劣ってはいなかったはずだ。
けれど──その先が、遠い。
(アンナにもトラヴァスにも、俺はまだ敵わねぇ……あいつら、とんでもねぇ早さで強くなっていきやがる!!)
焦りが、胸を刺す。
彼らが強くなる姿は、素直に誇らしかった。友として、嬉しかった。
それでも──同じくらい、いやそれ以上に、悔しくてたまらなかった。
強さだけじゃない。戦局を読む鋭さも、判断の的確さも、あの二人は群を抜いていた。
努力だけじゃ届かない壁が、そこにはあった。
風が、秋の夜気を含んで頬を撫でる。
ひやりとした空気が、熱を持った肌に心地よい。けれど、心の奥は冷めやらない。
拳を握りしめる。剣の柄が軋むほどに力がこもる。
敗北感が確かにあった。しかし──それを甘んじて飲み込む男ではない。
奥歯を強く噛み締める。
その目には、悔しさと、それでも消えない決意が揺らいでいた。
(まだだ……俺は、まだここで終わんねぇ!!)
その瞬間、カールは風を斬るように剣を振り抜く。
鋭く、重く、迷いのない一太刀。
それは誓いそのものを叩きつけるような、魂を込めた一撃だった。
闘技場の片隅──誰にも知られず、ただひとり、カールの誓いが静かに火を灯していた。




