255.女神に対して、ずいぶん気軽な口ぶりね?
時は過ぎて、初夏の風を感じるようになった頃。
王都の北東、魔の森で魔物が大量に出没したとの報が、王都に届いた。
森に近い村々ではすでに被害が出ており、目撃された魔物は、いずれも通常より大きく、異様に活性化しているとのこと。
年に何度か起こることではあるが、今回は規模が大きかった。
討伐任務には、アンナを筆頭とする部隊を選抜し派遣された。
アンナと連携の取りやすいカールとトラヴァスも同行することとなり、前線は三十名。
そして──出現したのは、古の地獄犬と呼ばれる魔物の変種だった。
黒い毛並みに紅い目。三本の尾を持ち、毒気を含む咆哮で仲間を鼓舞し、疾風のごとき速さで獲物を裂く。
それが数十体、群れを成して森の中央に集まっていた。
「数も質も、報告以上だな」
そう呟きながら、アンナはヒュッと音を立てて光の剣を血振りする。
足元で屍となっているインフェルノ・ハウンドは、通常個体よりも遥かに大きい。
その匂いに刺激された魔物たちが、さらに殺気立ち唸り声を放つ。
「囲まれる前に中央突破、敵を分断する! 楔形陣を敷け。私が矢じりに立つ。カール、トラヴァス、次鋒につけ!」
「「了解」!」
迷いなく、声が飛ぶ。即座に隊は動き、中央へ向けて突撃する。
──咆哮が、森を裂いた。
風が渦巻き、毒の気配が皮膚を焼くように突き刺さる中、アンナは一歩も退かず、先頭に立ち続けた。
たとえ足元が炎に焼かれようと、味方の士気を下げないように。中央が崩れれば、隊全体が瓦解する。それを誰より理解していた。
そして、討伐から数時間後──すべての魔物が鎮められ、森にはようやく静寂が戻った。
***
激戦を終えた一行はすでに解散し、王宮の控え室には、アンナ、カール、そしてトラヴァスの三人だけが残っていた。
日もすっかり暮れ、夜の静けさが部屋を包み込んでいる。
戦場での熱気はようやく鎮まりつつあったが、それでもまだ、三人の間には言葉にしきれない余韻が残っていた。
「……やっぱすげえよな、アンナは」
カールの声が静けさを破る。
アンナは、水を口にしながら視線を上げた。
「なにが?」
「なにがって、あれだよ。あの咆哮を正面で受けて、しかも全員の指揮取って……アンナがいなきゃ、森の中でバラバラだったぜ」
そう言って、カールはアンナの肩を叩くと、からかうような笑みを浮かべる。
「やっぱアンナはよ、アテナって感じだよな!」
「アテナ?」
アンナが少し眉をひそめる。
するとカールが待ってましたとばかりに得意げに胸を張った。
「知らねぇ? えーと、なんだっけっか? 太陽の女神的なやつ!」
「もう、知ってるわよ」
呆れたように息をつくと、アンナは当然のように言葉を紡ぐ。
「アテナは太陽の女神じゃなくて、戦いの女神でしょう? ね、トラヴァス」
話を振られたトラヴァスは、窓辺からふと振り返り、二人に視線を向けた。
「そうだな。詳しく言えば、知略、守護、正義のための戦い──それを象徴する女神だ。剣も振るうが、先を読み、民を導くことに重きが置かれている」
椅子に腰かけたカールはトラヴァスの話を聞いて、すっかりご満悦だ。まるで子どものようにドヤ顔をしている。
「ほれ見ろ、やっぱアンナはアテナじゃねーか!」
得意げな声に、アンナは呆れながらカールを見つめた。
「なんだよ。んな顔して、本当は嬉しいくせによ」
「あらカール。女神に対して、ずいぶん気軽な口ぶりね?」
「褒めてんだっつの!」
声を上げて口を尖らせるカールに、アンナは肩を揺らす。
そんな穏やかな空気の中、トラヴァスはわずかに目を細めた。
(アテナ……確かにそういう見方もある、か)
トラヴァスはどちらかというと、アンナをディアナだと感じていた。
月の光を思わせる静謐な強さ。だがその一方で、誰よりも現実を読み、仲間を守り、戦場に立ち続ける意志の芯の強さ──
アンナはどちらでもあるのかもしれない。
夜を統べるディアナでもあり、知と戦の女神アテナでもある。
(……ならば、シウリス様は──アレス、か)
荒ぶる戦神。血と怒りを司る、破壊と前進の象徴。
理性より先に拳が出るが、戦術眼はずば抜けて鋭い。
直感で戦局を読み、火花が散るような速さで決断を下す。
無茶をする。容赦もない。極限の修羅場でこそ、その真価を発揮する。
激情と冷徹が同居し、混沌の中で最適解を引き寄せる天才。
(ただ立っているだけで、周囲の空気が張り詰める。あれは戦いに魅入られた者ではない。アレスそのものだ)
そんな思考の余韻に沈んでいた時、カールの声が現実へと引き戻した。
「あ、でもアンナはアイアースっても言われてたよなぁ。神の称号、いっぱいじゃんか」
トラヴァスが小さく息をつき、たしなめるように告げる。
「アイアースは神ではないぞ、カール。正しくは、英雄だ」
「あ? そうなのか? けどアンナの蒼天は、神の盾って言われてんじゃねぇか」
「間違った認識が広まった結果だ。私はそういう意味でアンナをアイアースと言ったつもりはなかった」
トラヴァスの言葉に、アンナは目を瞬かせ、首を傾げた。
「あら……アイアースって言い始めたの、トラヴァスが最初だったの? いつの間にか広がってたから、誰が言い出したのか、不思議だったのよね」
グレイの遺体を守ろうとする、アンナの姿がトラヴァス脳裏に映し出される。
それはまさに英雄アイアースとしか言いようがなかったのだ。
「あの姿を見たら……つい、な」
俯きかけたトラヴァスの表情を、カールが陽気な声で断ち切った。
「女神な上に英雄ってか? 最強かよ、俺らの筆頭大将は」
「ふふ、そんな風に言ってもらえたら、その名に恥じないように頑張らないといけないわね」
冗談めかす口ぶりとは裏腹に、アンナの目元にはほんのりと照れが滲んでいた。
カールは椅子の背にもたれ、大げさに笑ってみせる。
けれどその笑いが静まった瞬間、ふと、表情が変わる。
カールの瞳──燃えるような赤が、まっすぐアンナを射抜いていた。
その熱に触れた瞬間、アンナの胸が、静かに波打つ。
「カール……?」
思わずその名を呼ぶ。
さっきまでの軽口とは別人のような、誠実な眼差しがそこにあった。
そして彼は、ゆっくりと言った。
「……これからも、戦場を照らしてくれよ」
張り詰めた空気の中に、迷いのない声が響く。
「俺たちの、アテナ」
それは、飾りでも冗談でもなかった。
ただ、まっすぐな信頼の言葉だった。
アンナは小さく息をのむ。目を伏せると、瞼の裏に浮かんだ熱を静かに鎮めるように息を吐く。
そして──夜の湖面に落ちる月の光のような、やわらかな笑みを浮かべた。
「……ええ。できる限り、照らしてみせるわ。みんなが、立ち止まらなくて済むように」
カールとトラヴァスは、凛と背を伸ばしたアンナをじっと見つめていた。
その静かな決意に、胸の奥をそっと掬われるような感覚が走る。
室内に静けさが戻る。夜風がわずかにカーテンを揺らし、柔らかな音を奏でた。
「さぁ、今日はもう遅いし、ゆっくり休みましょう」
アンナが穏やかに区切りをつけると、カールもいつもの調子を取り戻す。
「おう、そうすっか。アンナもゆっくりしろよ」
立ち上がったカールが、大きく伸びをする。背骨が鳴る音が、静寂の中に乾いた余韻を残した。
「明日は報告もあんだろ? 今夜はちゃんと眠れよ。俺らのアテナが倒れたら、困っからな」
そう言って、彼は軽く手を振り、控え室の扉へと向かう。
「……それは気遣ってるのか、茶化してるのか、どっちかしらね」
アンナの呟きに、背を向けたままカールが片手をひらひらと振る。どちらとも取れるその仕草に、アンナは苦笑するばかりだった。
続いて、トラヴァスも動き出す。カーテン越しに月を一瞥してから、ゆっくりと歩み寄り、アンナの隣で足を止める。
「その光は、多くの者にとって道標だ。だが……あまり無理はするな。燃え尽きてしまっては、なにも残らない」
その言葉に、アンナは一瞬だけ瞳を伏せ、それからそっと微笑んだ。
「ありがとう。けど私は、照らせるうちは照らしたいの。誰かの歩みが止まるくらいなら、ね」
トラヴァスはしばし言葉を探すように彼女を見つめ、それから静かに頷いた。
そして、カールの後を追うように控え室を出てゆく。
扉が閉まり、また静寂が訪れた。
誰もいなくなった部屋で、アンナは一人、深く息を吐く。
今日という一日が終わった。だが、またすぐに次がやってくる。
窓の外を見やれば、月が澄んだ夜空に浮かんでいた。
静かに、ただそこにある。どこまでも凛として。




