254.そんなことを言われたら……私はそれを、本気にする
「私の前では、まだ……〝いい子〟をやってるのかもしれないわね」
アンナはふっと目を伏せ、呟くように言った。
二人はルティーのことを、紛れもなく〝いい子〟だと思っている。
その上で、さらにいい子でいたいというルティーの心が、アンナの目にも映っているのだ。
アンナの声音には、どこか寂しげな余韻がある。
しかし、それを肯定するでも否定するでもなく、トラヴァスは淡々と答えた。
「それは悪いことではない。アンナには見せたくない顔も、あるのだろう。信頼とは、すべてを曝け出すことではない。互いに守るべきものを、理解し合うことだ」
静かな詩を読むような口調で、言葉は決して熱くはない。けれど、その奥に宿る心は、思いの外、温かかった。
「……そう、ね」
そう返したアンナは、くすっと笑った。
しかしその笑みの奥に、影が射す。雲間から覗く陽射しが、一瞬だけ翳るように。
「ねえ、トラヴァス。あの子が、どうしようもなく傷ついた時──あなたは、助けてあげられる?」
その問いに、トラヴァスは応えなかった。
否、応えることができなかった。
〝助ける〟とは、いったいどういう行為なのか。
漠然としていつつも、その言葉の意味はあまりにも重い。
差し伸べる手のことか。苦境から引き上げることか。
あるいは、隣にいてやることか。決して、見捨てないことか──。
沈黙の果て、ようやく絞り出した言葉は、低く静かだった。
「……私の立場と信念が許せる範囲であればな。しかし彼女がそれを望むかは……別の話だ」
その一言に、アンナは微かに頷く。
目を閉じたまま、遠い未来を見るように、やわらかな声を落とした。
「そうね。それでも、覚えていて。あなたを頼ることを選ぶ強さも、ルティーの中には、きっとあるから」
その言葉に、トラヴァスはなにも返さなかった。
いや、返すべき言葉が見つからなかった──というのが正しい。
彼の脳裏には、どうしてもあの少女の表情が浮かんでしまう。
誰よりもアンナをまっすぐ慕っているがゆえに、融通が効かない一面を持つルティー。
(……あの執着を変えてしまうことが、救いなのか……?)
そんな彼女を自分の力で変えてしまうのは、驕りではないかという疑問がトラヴァスの頭を掠めていく。
だが、アンナはその沈黙を咎めることなく、満足げに席を立つ。
話すべきことは、すでに話し終えたのだと、そう告げるように。
「ありがとう、トラヴァス。話せてよかったわ」
「期待には、応えられんかもしれんぞ」
警告めいた一言に、アンナはにこりと笑った。
「いいのよ。頭の片隅にでも入れておいてくれれば」
トラヴァスは立ち上がったアンナと同じように、静かに席を立った。
扉の方へ向かおうとする後ろ姿は、筆頭大将ではない。淑やかな、一人の美しい女性だ。
歩くたびにふわりと揺れるワンピースドレスを、トラヴァスは目で追う。
「……送ろう」
アンナは足を止め、少し驚いたように振り返った。
だが、その目元はすぐに和らぎ、笑みがほころぶ。
「ありがとう。でも同じ王宮内よ?」
「そういうことではない」
ゆっくりと彼女に歩み寄りながら、トラヴァスは静かに言う。
「この時間に女性が一人で回廊を歩くのは、どうにも落ち着かない。私の問題だ。気にしないでくれ」
「もう。あなたって本当に、心配性なんだから」
アンナは目を細めてくすりと笑った。
黒曜石のような瞳の奥に誘われるように、トラヴァスはアンナの隣へと寄り添う。
「じゃあ……甘えちゃおうかしら」
トラヴァスは無言で頷くと、部屋の扉を開けた。
夜の回廊に、銀色の月光が差し込んでいる。
歩き出した二人の足音だけが、静けさの中に控えめに響いた。
並んで歩く距離は、ごく自然に、近い。
「ねえ、トラヴァス」
「どうした?」
「あなたって、いつも私の役に立つことを考えてくれているでしょう?」
「当然だ。アンナはこの国の──」
だが、そこで声は止まる。
トラヴァスを見上げるアンナの顔が、月光に照らされていた。
今しがた読んでいた戯曲の一場面が、ふと脳裏をかすめる。
(月の女神──ディアナ)
ただ静かに存在することで、全ての空気を変えてしまう神聖な存在。
感情を表には出さず、けれど冷たさはなく──
そのあまりの美しさに、トラヴァスは言葉の続きを失っていた。
「いつもありがとう。でも、こうしてただ隣にいてくれるっていうのも、悪くないのよ?」
彼女の声はどこまでもやわらかく、それでいて胸にすっと入ってくる。
トラヴァスはその言葉の意味を咀嚼しながら、短く答えた。
「……気をつけろ」
「え?」
「そんなことを言われたら……私はそれを、本気にする」
アンナは一瞬立ち止まり、ぱちりと瞬きをする。
「もちろん、私だって本気で言ってるわよ?」
そしてアンナは小首を傾げながら──可笑しそうに笑った。
理解していない無防備な笑みと、夜気に揺れる髪。
その美しさに、思わず抱き寄せてすべてを奪ってしまいそうになる衝動が溢れた。
ただ隣にいるだけで、試されているのだ。
トラヴァスは理性を総動員して、堪えた。
(……これでは……アンナに信用されてしまうのも当然か)
抑え込んだ衝動の熱を奥歯に込めながら、歩き続ける。
やがて、アンナの部屋の扉が視界に現れた。
「ここでいいわ。ありがとう、トラヴァス」
「なにかあれば、いつでも呼ぶのだぞ」
「ええ。……あなたも、ちゃんと休んでね?」
トラヴァスが頷くと、アンナはゆっくりと扉を開けて部屋へ入る。
だが、その前にちらりと振り返った。
「ねえ、また……こうやって話してもいいかしら」
「別に構わない。私にその資格があるなら、いくらでも」
その言葉に、アンナの表情がやわらかくほどける。
そして静かに告げた。
「……おやすみなさい、トラヴァス」
「おやすみ、アンナ」
扉が音もなく閉まり、静寂が訪れる。
しかし、トラヴァスの胸の奥には、どこかふわりとした熱が残っていた。
(……隣にいるだけ、か)
ぽつりと胸の奥で呟き、ひとつだけ息を吐いて、踵を返す。
夜の回廊を歩きながら、トラヴァスはただ、アンナの言葉を──何度も、何度も、心の中で反芻していた。




