253.不可解な少女だ
ルティーを無事に宿舎へ送り届けた後、トラヴァスは王宮へと戻ってきた。
自室に入り、いつものように夕食を終わらせると、棚から一冊の戯曲を抜き取った。そしてゆっくりとページをめくり始める。
「やはり……この作品を、名匠ガウディの演出で観てみたいな……どう解釈されるのか、興味がある」
独り言のように零れたその声には、懐かしさと期待が混じっていた。
最初にガウディの舞台を目にした時の、あの鮮烈な衝撃。舞台上で生まれ変わった物語は、ただ演じられているのではなく、命を宿していた。
名匠ガウディの演出は、決して型に嵌まらない。観る者の感情を手繰り寄せ、思いもよらぬ解釈で胸を打つ。だからこそ、彼の手によって、この物語が舞台に咲き誇る瞬間を観てみたい。
各地を巡るガウディの舞台は、国境を越えて話題となり、演劇ファンが今か今かと待ち望む伝説のような存在となっている。トラヴァスもその一人として、王都に再び訪れる日を願って止まない。
今夜手に取った戯曲は、古い神話を元にした作品で、夜の森と月の女神・ディアナが登場する。
月光を纏い、語らぬことがむしろ雄弁に響く、その静かな姿。
一切を超越したような、神聖な静けさ。
ただそこにいるだけで、世界の空気が変わるような存在の、女神。
トラヴァスはページをめくる手を止め、脳裏に描き出す。
自分が演出するなら、どの場面で光を落とすか。どんな間を使い、どのタイミングで静寂を切り裂くか。
そんな想像を巡らせながら、夜の静けさに身を委ねて本を読む時間は、トラヴァスにとって、ささやかで確かな喜びだった。
「トラヴァス、起きてる?」
声と同時に名を呼ばれて、トラヴァスはハッと顔を上げた。間違えるはずもない、アンナの声だ。
すぐに本をテーブルに置き、立ち上がって扉を開ける。
「どうした、アンナ」
「いえ、大した用じゃないのよ。ルティーとなにを話していたのか、ちょっと気になって」
そう言って微笑む彼女は、いつもの騎士服ではなく、落ち着いた私服姿だった。
アイボリーのワンピースは、王宮の回廊を歩くにふさわしい控えめな品の中にも、どこか柔らかな温もりを感じさせる。ハイウエストで切り替えられたデザインが、凛とした立ち姿に優美な可憐さを添えていた。
首元を飾る淡いレースは、まるで夜の灯りを掬うように繊細な光を宿し、七分丈の袖は薄手のシフォンで、手の動きに合わせて静かに揺れる。その姿に、トラヴァスはつい息を呑み──目を離せなくなる。
「あ、言えないことならいいのよ。あなたのことは信用しているし」
ふと向けられた言葉に、トラヴァスは戸惑いを無表情の内側に押し込め、静かに答えた。
「中に……入るか?」
「いいの? ありがとう」
その返事はあまりに自然で、疑うそぶりなど微塵もなかった。
時計の針は夜九時を回っている。扉を閉め、トラヴァスはアンナのために椅子を引いた。彼女は当たり前のように腰かけ、彼もまた向かいの椅子に静かに座る。
その様子を見ながら、トラヴァスの胸の内に淡い困惑が浮かぶ。
(しかし、この時間に男の部屋に訪れるとはな……危機感がないというか、信用されているというべきか)
喜ぶべきか、それとも嘆くべきかと、心の中だけで苦笑する。
「で、ルティーに話って、なんだったの?」
アンナが黒い瞳をまっすぐにトラヴァスへと向けた。
「気になるか?」
「そりゃ、気になるわよ。私の大事な付き人だもの。間違いなんか……ない、わよね?」
「間違い……」
その一言に、トラヴァスは少し呆れたように眉を動かす。
「幼き少女に、手を出すような男だと思われているのなら、心外だが」
「そうよね、わかっているんだけれど……じゃあ、なにをしていたの?」
「それこそ大した話はしていない。いつも仕事と勉強ばかりだからな。息抜きに連れ出してやっただけだ。彼女は……真面目すぎる」
トラヴァスの真摯な語りに、アンナは一瞬きょとんとした表情を浮かべ──そして、ふっと笑い出した。
「ふふ……! 一番真面目なあなたに『真面目すぎる』って言われちゃうなんて……よっぽどなのね」
「ああ。よっぽどだ。それに私とは違い、ルティーは優しすぎる」
「あら、あなたも十分優しいわよ? トラヴァス」
目を細めて微笑むアンナから、トラヴァスは少し視線を逸らした。
「ただクソ真面目なだけだ。優しさなど、目的と打算のためには切って捨てる覚悟がある。だが……ルティーは違うだろう?」
トラヴァスの言葉に、アンナはゆっくりと頷いた。
「そうね……底抜けに優しくて、純情で……可愛くて、しっかり者で、真面目……それに譲れないところでは、すごく頑固なのよ。あの子」
「そのようだな」
トラヴァスの脳裏に、先ほどのルティーの言葉が蘇る。
『もし、このことをアンナ様にお話しするようなことがあれば──私、トラヴァス様を一生お恨みしますから』
震えながらも瞳に宿した強い意志は、誰がなにを言っても無駄だと瞬時に判断できるものだった。
(恨まれるのは困るな。動きにくくなる)
しかし、恨むというだけの脅しに屈した自分が可笑しくて、トラヴァスは喉の奥で笑った。
そんな姿を見たアンナが、驚いたように目を丸める。
「どうしたの?」
「……いや、なんでもない」
トラヴァスは軽く咳払いをし、アンナに向き直って話し始めた。
「私もルティーには、いつも驚かされる。あれほど従順でありながら、芯は折れない。簡単に傾くかと思えば、誰より強く立っている。まるで……薄氷のようでいて、その実、鋼よりも強靭な意志を持っている」
語るうちに、その存在の輪郭が、心の中に鮮やかに浮かび上がってくる。
ルティーという人物の本質を、捉えられそうで……しかしどこかでするりと躱されるような感覚が、胸の奥を伝う。
アンナは、トラヴァスの言葉に納得するように、ふっと微笑んだ。
「……やっぱり、あなたもそう思ってたのね」
「ああ。他人の顔色ばかりを見ているようで、けして流されない。世間知らずで子どもかと思えば、時に、年寄りのように冷静なことを言う。……不可解な少女だ」
さらに言葉にすると、やはりなにかが引っかかった。
だが、なぜそんな感じを受けるのかが、理解できない。まさに、不可解。
「……それは、トラヴァスがしっかり見てくれているからよ。だからルティーも、あなたには気を許せる部分があるのだと思う」
アンナの声は柔らかく、それでいて、どこか寂しげでもあった。




