252.一生お恨みしますから
見慣れた、けれど今はもう違う場所──
かつてルティーの両親が住んでいた家の前で、トラヴァスは立ち止まっていた。
どう言い訳すべきか。なにを答えれば自然か。
ルティーは表面を装いながら、内心で瞬時に準備を整える。
「ここは、ルティーの家ではなかったか?」
無感情な声音に、ほんのわずかに含まれる問いの重み。
確かに、トラヴァスは知っている。
この家にルティーを送ってきたことが、過去に二度あった。シウリスの成人の宴の夜と、昨年のアシニアースの日。
そのため、ここをルティーの家だと認識しているのは当然だった。
だが今、家を出入りしているのは、まったくの別人──見知らぬ家族だ。
「両親は引っ越しました。王都は、家賃が高いですし」
なんでもないことのように、ルティーはさらっと言ってのける。
「引っ越した?」
トラヴァスは、薄く目を細めた。
その表情は、問いただすでも責めるでもない。ただ、静かに観察するような視線だ。
「……地方に、か?」
「はい、そのようなものです」
「報告が上がっていないようだが。きちんと支援統括隊に連絡しなさい。軍ではなにかあった時のため、家族の連絡先に変更があった場合は、必ず報告する決まりだ」
「……申し訳ありません、うっかりしていまして」
ルティーは頭を下げる。
家族とはすでに縁を切っているので、その報告義務はない、とは言わなかった。
それを言えばさらにややこしくなり、聞かれたくないことまで言わなければいけなくなってしまう。
トラヴァスのアイスブルーの瞳が、真実を貫くようにルティーを精察を続ける。
「それで、どうして隠していた? 行き先は?」
ゆっくりと頭を上げると、ルティーはそっと首を振った。
「隠してなど……うっかりしていただけで……」
「行き先は」
もう一度、同じ言葉が放たれた。逃がす余地のない問い掛け。
ルティーはきゅっと口を結んだ。
(今言わずとも、連絡先の変更を届ければ、トラヴァス様はそれを調べられる立場にあるわ……)
もう、トラヴァス相手に誤魔化しは効かない。観念したルティーは、それでも毅然とした態度で口を開く。
「ファレンテイン貴族共和国、です」
ルティーが国の名を告げると、トラヴァスは一瞬、顔を顰めた。
「……遠すぎる。簡単に会える距離ではないではないか」
その指摘には、反論の余地もなかった。トラヴァスはなおも問いかける。
「ファレンテイン貴族共和国には、なぜ?」
純粋な疑問に、ルティーは息を整えて淡々と答える。
「父方の祖母が、そこで一人暮らしをしているんです。以前から行く予定ではあったんですが……私のこともあり、先延ばしになっていて……」
「……そうか」
トラヴァスに疑う様子は見られなかった。事実を話しているのだから、当然ではあるが。
しかしいつもは無表情なその顔を、彼はいくらか渋くした。そしてじっとルティーを見つめる。
「……一緒に行きたかったのではないのか?」
ルティーは、一瞬だけ息を詰まらせた。
しかしその思いは、もうとうに振り切っている。
「もちろん、簡単には会えずに寂しいですが……手紙もありますし、大丈夫です」
ルティーが微笑んでそう言うと、トラヴァスはしばらく沈黙のまま彼女を見つめた。
その瞳の奥には、理解と疑念と、少しの戸惑いが混じっている。
なにかを言いたそうにしていたトラヴァスは、少し悩んだ後、静かに頷いた。
「……わかった。では、この件はアンナに報告しておこう」
「っ……え……?」
そう言われた瞬間、ルティーの全身から血の気が引いた。
笑顔を張りつけたまま、ぴたりと動きが止まる。
「ま、待ってください。それだけは……おやめください」
「なぜだ? 隠す必要のない話だろう」
至極まっとうな問いかけに、ルティーは慌てて首を横に振る。
「……だめ、です。アンナ様には言わないでください」
「……アンナは君の上官であり、日々行動を共にしている。いざという時、家族への連絡が必要になることもある。そのためにも──」
「それでも……!」
ルティーは声を上げる。
自分でも驚くほどの熱がこもっていた。
「それでも……今は、ダメです! トラヴァス様ならば、おわかりになっているはず!」
まなじりを少しだけ吊り上げ、必死に訴えた。
その語気の強さに、トラヴァスの口元はかすかに動きを止める。
「……アンナのため、か」
そうしてトラヴァスは、深く息を吐き出す。
「確かに、アンナがこの件を知れば、ルティーを両親の元へ返そうとするだろう。そうなれば、自らの判断で水の魔法士を手放したと、アンナは咎められる。進退を問われてもおかしくはない」
彼の言葉は、まさにルティーが恐れていた核心だった。
ルティーは深く頷く。唇が、微かに震えていた。
「だから……今は、私が……ちゃんと、自分で……いずれ、きちんと話しますから……」
けれど、トラヴァスの目はなおも冷静だった。
「だが──」
その逆接が落ちるより早く、ルティーの視線がトラヴァスを強く射抜く。
「……もし、このことをアンナ様にお話しするようなことがあれば──私、トラヴァス様を一生お恨みしますから」
その声は震えていた。
だが、それ以上に真剣だった。
もちろん、アンナのためというのは嘘ではない。
けれど、なにより──ルティー自身がアンナに『両親の元へ行け』と言われるのが、怖かったから。
伏せられた目の奥に、怯えと、覚悟と、切実な願いが、複雑な色を浮かべている。
小さく握りしめられた両手は、必死に気持ちを支えていた。
トラヴァスは、瞬きを一つして。
「……それは、怖いな」
いつもと変わらぬ無表情のまま、静かにそう返す。
まったく怖くもなさそうな顔で、言葉を続けた。
「わかった。私からは言わないでおこう。だが、統括の者に話せば、上司であるアンナに報告が行く。それは避けられない」
「だから……言えなかったんです……」
ルティーの肩がわずかに落ち、視線が足元へと沈む。
そんな少女の姿を見ては、これ以上トラヴァスも強くは言えなかった。
そっと息を吐くと、瞳を送る。
「では、私にだけ詳しい住所を伝えておきなさい。もしもの時の連絡先は、私が責任を持って管理する。ルティーがいいと言うまでは、誰にも知らせることはしない」
その言葉に、ルティーの肩がわずかに震えた。
ゆっくりと顔を上げると、そこには、変わらぬ無表情の奥に、ごくわずかな温度がある。
信じられると。そう、思えた。
ルティーは深く頭を下げる。
「……ありがとうございます、トラヴァス様」
その声は震えていたが、確かな感謝が宿っていた。
小さな嘘も、拙さも、弱さも。
彼は、黙って受け止めてくれたのだ。
ルティーは胸の奥でそっと、もう一度感謝を述べる。
風が、ふっと二人の間を通り抜けていった。
冬の気配を帯びたその風が、なぜだか少しだけ、あたたかく感じられた。




