251.お話ではなかったんですか?
ブクマ68件、ありがとうございます!
ルティーが両親と食事をしてから、五日が過ぎた。
その日の記憶は、まるで薄絹をかぶせたように静かで、どこか夢の中の出来事のようでもあった。
ほんの少し笑い合って、ほんの少し涙ぐんで、最後に「必ず手紙を書く」と父が言った。その声が、今も耳に残っている。
そして今日、両親はファレンテインへと旅立った。
遠く、容易には会えない国へ。
見送りには行かなかった。
職務があり、勤務時間の都合もある。
なにより、誰にも知られたくはなかった。両親がファレンテインから出て行くことを。
周りに気を遣わせたくはなかったし、それにより〝見殺し〟がどこかで露見されるとも限らなかったからだ。
書類上は他人だから、報告義務もない──そう、自分に言い訳をしながら。
実際には、すでに縁を切っていることすら、軍には知らせていない。それを知っていたのは、アリシアとジャンの二人だけだ。
ルティーは気がつけば、天涯孤独になっていた。
書類の上でも、現実の距離でも──。
周りには、誰もいない。
そう考えてぶるりと身を震わせた後、ルティーはわずかに首を振る。
(ううん……私は天涯孤独なんかじゃない。だって私には、アンナ様がいらっしゃるんだもの)
胸の中に、そっと火を灯すような想いがあった。
誰よりも敬愛し、尊敬し、心から慕っている人──アンナ。その人のそばにいられるという事実だけで、ルティーは今も立っていられる。
(一生、アンナ様のおそばにいる。絶対に。なにがあっても、アンナ様のおそばだけは離れない。そのためだけに、私は存在してるんだから……!)
そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなった。
世界が色を取り戻していくような感覚。
アンナが自分を必要としてくれる。そのたったひとつの確信があれば、ルティーはなんにだってなれる気がした。空を翔る鳥にすらなれるような、そんな自由な心地。
けれど、その光が強ければ強いほど──影もまた、深くなる。
ふとした瞬間、想像してしまうのだ。
もし、アンナから『もういい』と言われたら。
『もういらない』と思われたなら──
それは、ルティーにとっての絶望。
世界のすべてが瓦解するに等しいほどの、暗く、深い谷底。
胸の奥にひんやりと氷が張る。
呼吸が止まり、身体の芯から冷えていく。
心臓が、ぎゅうっと苦しげに縮こまる。小さく丸まりながら、凍りつくように。
(ううん……大丈夫。アンナ様はそんなこと、絶対に言わない。優しくて、私を見捨てたりなんて──)
自分に言い聞かせる言葉が、かすかに震える。
けれど、知っている。
人は変わる。
立場も、環境も、時が流れればすべてが少しずつ、けれど確実に移り変わっていく。
永遠など、幻想でしかない。どんなに願っても、なにひとつ変わらずにいられるものなど、ないのだから。
(だから私は、努力しなきゃ……)
忘れられないように。
必要とされるように。
愛されるように。
(いつまでも、アンナ様の隣にいられるように──)
そのためなら、なんだってできる。
痛みも、努力も、犠牲すらも惜しくはない。
両親がこの国を去った今、ルティーにとって、人生とは。
正義とは、幸せとは──
ただ、アンナと共にあること。
それだけが、彼女にとってのすべて。
それ以外に──価値など、ないのだから。
それから、一ヶ月が過ぎた。
季節はすっかり冬へと足を踏み入れ、夕暮れの空気には肌を刺すような冷たさが混じり始めていた。
その日も、終業の刻限が近づいた頃だった。アンナの執務室に、いつものようにトラヴァスが現れたのは。
業務の報告を静かに終えると、彼はふとルティーに目を向けた。
澄んだアイスブルーの眼差しが、まっすぐに彼女を捉える。
「ルティー。この後用事がなければ、少し聞きたいことがあるのだが……構わないか?」
「え? はい、なにもございませんが」
咄嗟に答えたルティーに、彼はわずかに頷く。
「では、帰りの用意をして門の前で待っていなさい。私もすぐに向かう」
「はい」
言われた通りに立ち上がり、アンナへ帰りの挨拶を済ませると、ルティーは王宮の門へと向かった。
外はすでに薄暮が落ち、赤みを帯びた空の下に長い影が伸びている。
そこへ、コート姿のトラヴァスが姿を現した。彼の足取りは相変わらず無駄がなく、スマートだ。
「待たせたな、ルティー。行こう」
「行くって……どこにですか? お話ではなかったんですか?」
「話だけでは、誤魔化されそうだったからな」
その一言に、心臓が跳ねた。
淡々と告げられた言葉に、内心の温度が一瞬で下がる。
誤魔化す……と、はっきり言われた。
だがルティーは、表情一つ崩さなかった。完璧な演技で微笑み、なんのことかと小首を傾げて見せる。
しかし心の内では、まるで警鐘が鳴ったように、心臓が跳ね上がっていた。
なにかバレたのか。どこまで気づかれているのか。
思考が急速に回転を始める。
やがて、トラヴァスの足が止まったのは、とある民家の前。それは──ルティーの、家だった。




