250.期待しているからこそよ?
王都の門が遠く霞む地平に姿を現し始めた頃──アンナは乗合馬車を降りた。
傍らには、静かに歩調を合わせるイークス。郊外の丘の中腹には、墓標がいくつも肩を並べている。
周囲はすっかり秋の気配に包まれていた。空は高く、澄んだ風が色づいた草を揺らし、どこかもの悲しい香りを運んでくる。
アンナは、ひとつの墓の前で静かに膝をつき、手を組み合わせた。隣でイークスも、心得ているように伏せている。
祈りの最中、不意に吹き抜けた風が漆黒の髪を撫でていった。
「すっかり、秋ね……」
呟く声はどこか寂しさを含み、しかし穏やかだった。十月も半ばを過ぎたこの季節は、毎年、アンナの胸にわずかな切なさを運んでくる。
「今年も、命日に来られなくてごめんなさい。また、来るわね……グレイ」
そっと視線を上げ、彼の名が刻まれた石を見つめる。アンナの瞳は、そっと遠い時間を抱きしめていた。
丘を下りると王都に入り、裏山へと向かう。
緩やかな斜面を登り、ひと息ついて振り返ると、眼下には黄昏に染まりはじめた王都が見えた。
アンナはそっとイークスの首輪を外す。
「楽しかったわね、イークス。また……来年、行けると思うわ」
彼女の言葉に、イークスはくぅんと小さく鼻を鳴らす。イークスもアンナも……微かな予感を、胸のどこかで感じていた。
──また来年も、こうして祈りを捧げ続けていくのだと。グレイの命日ではない日に。
日は傾き、空の端が淡く朱に染まり始めていた。アンナはひとり、王宮へと足を向ける。
門をくぐると、アンナに気づいた騎士たちの敬礼が続いた。
しかし旅装を脱ぎ、柔らかな衣服をまとった穏やかな姿のせいか、筆頭大将と気づかぬ者も、いくらか見受けられた。
(髪の色は戻しているのだけれど……それでも気づかれないなら、フィデル国でも気づかれたりはしないわね)
わずかに残っていた不安を消し去って、アンナは自分の執務室の扉を開ける。
「アンナ様!!」
待ち構えていたように立ち上がったのは、ルティーだった。目を見開き、ぱっと表情が綻ぶ。
「おかえりなさいませ! ご無事でよろしゅうございました!」
「ただいま、ルティー。大袈裟よ。少し旅行してきただけじゃないの」
苦笑交じりに返すアンナの言葉に、ルティーは少し頬を赤らめて、それでも真剣なまなざしで問いかける。
「お怪我は大丈夫でしたか? 傷が開いたりは……」
「ふふ、いつの話をしているの? もうすっかり大丈夫よ」
柔らかなアンナの口調に、ルティーはほっと息を吐いた。その仕草に、少女の真心が滲み出ていて、アンナは微笑ましく思う。
「ルティーも、変わりはなかった?」
「はい。いつも通り、勉強をして過ごしていました」
「せっかくなんだから、お出かけでもすればよかったのに」
「いえ……私には、学ばなければいけないことがたくさんありますから……」
「……そう」
律儀な返答に少し眉を下げながら、アンナは懐から小さな袋を取り出す。
「これ、旅行のお土産よ」
「わぁ……ありがとうございます!」
目を輝かせながら、両手で受け取るルティー。袋の口をそっと開いた彼女は、ほんの少し首を傾けた。
「これは……干し葡萄? それに……小さな瓶?」
「葡萄のお菓子と、香油よ。葡萄の種から絞ったものなんだとか。肌に塗ると保湿にいいらしいの。これから冬が来るし、使ってね。若いうちからのケアが肝心よ」
「気にしてませんでした……ありがとうございます、使わせていただきます!」
嬉しそうにふわりと微笑むその表情に、気になる様子はなにひとつなかった。
いつもとまったく変わりのないルティーの態度に、アンナは安堵して机に向かう。
「なにも置かれてないわね」
「すべてトラヴァス様が引き受けてくださっているので……この二週間分の動向報告書を、アンナ様が戻り次第、届けに来るとおっしゃっていましたが」
ルティーがそう言った瞬間、ノックとほぼ同時に扉が開いた。
「アンナ、帰って来たって!?」
「お前はちゃんとノックをしろ、カール」
「したっつの!」
そこにいたのは、赤獣カールと氷徹トラヴァスの姿。
「帰って早々、騒がしいわね、もう」
呆れつつもどこか笑顔で息を吐くアンナに、ルティーも楽しげにくすくすと笑っている。
「今回は、どこ行ってきたんだ?」
「まぁ、色々とね。古代遺跡を巡ってきたわ」
「っぶ!」
途端にカールが吹き出す。
「病み上がりに行くような場所じゃねーじゃんか!」
「無茶はしていないだろうな、アンナ」
今度は真面目なトーンで、トラヴァスが問いかけた。
「深入りはしていないから安心して。外観を見るだけでも楽しいのよ」
「そうか、ならばいいが。これはこの二週間分のまとめだ。必要なものには印をつけてある。目を通して必要なものにはサインをくれ。明日で問題ないものばかりだ」
どさりと置かれた分厚い書類の束に、アンナは小さく息を漏らす。
「ありがとう、トラヴァス。これだけまとめるのも大変だったでしょう?」
「問題ない。いつでも筆頭大将になれると自負しているぞ?」
「あら、それは気を抜けないわね」
二人は目を合わせると、ふっと笑い合った。
本気半分、冗談半分な二人のやり取りに、剣呑な雰囲気は一切ない。
その時、終業を告げる鐘の音が王宮の空気を穏やかに震わせた。
ルティーはタイミングを見計らったように荷物を持ち、軽やかな所作でアンナの前に立つ。
「アンナ様のお顔も見られましたので、私は失礼いたしますね」
「ルティー、よければ一緒に夕食でもどう?」
その誘いに、ルティーの表情がぱっと明るくなった──が、直後に申し訳なさそうに眉を下げる。
「実は……今日は両親と食事の予定なんです。せっかくお誘いいただいたのに、申し訳ありませんが……」
「いえ、いいのよ、そっちを優先してくれて。楽しんで来てね」
「はい、ありがとうございます。……失礼いたします」
深く丁寧なお辞儀のあと、ルティーは足音も静かに部屋を後にした。
扉が閉まると同時に、室内にふっと静けさが戻る。
アンナは残された余韻のようにその背中を見送りながら、小さく眉を寄せた。
「私に両親がいないから、気を遣わせちゃったのかしら。本当に気にしなくていいんだけれど」
「ルティーは気遣い屋だからな。そうかもしれん」
「あら、トラヴァスもそう思う?」
淡々とした口調のトラヴァスにちらりと目を向けると、彼はいつもの無表情でルティーの去った扉を見ていた。
「ほんっといい子だよなぁ、ルティーは。なかなかいねぇぜ、あの年でよ」
カールも全面的に同意する。
誰が見てもルティーは〝いい子〟で間違いない。
「前回の時は、毎日この執務室でアンナを待っていたがな。今回は後半、しっかり休んでいたようだ。今日はさすがに待ちきれなかったようで、朝からここにいたが」
トラヴァスの言葉に、今度こそゆっくり休んでいてもらいたいと思っていたアンナは、目を瞬いた。
「……そうなの?」
「ああ。朝一番にここに来て、机を片付けたり、備品を整えたり。『いつ戻られても大丈夫なように』と、随分な念の入れようだった」
淡々としたトラヴァスの声の中には、しかしどこか優しい響きを含んでいる。
続けてカールがニッと笑う。
「しかも、時計ばっか見ててよ。『あと何時間くらいで戻られるでしょうか』って、俺が来るたびに聞いてくるんだぜ。ルティーってマジで、アンナのこと好きだよな」
「……そうね」
胸の奥がじんわりと温まるのを感じながら、アンナは頷いた。
こんなにも想ってくれる相手がいる。その事実が、心をやさしく包んでくれた。
それにしても──と、アンナはカールに目を向ける。
「カール……あなた、〝俺が来るたびに〟って、しょっちゅう来てたの? 仕事もそっちのけで?」
「っう!!」
図星を突かれたカールが小さくうめき声を上げて胸を押さえる。
「言ってやるな、アンナ。カールはルティーよりも子どもなのだ」
「そんなだから将になれないのよ」
「うううっっ!!」
言葉の矢が突き刺さるたびに、カールは演技過剰にのけぞり、ぎゅっと胸元を押さえてよろよろと移動しながら机に突っ伏した。
その姿を見たアンナとトラヴァスは、思わず顔を見合わせ、くすりと笑う。
「まだまだ、将への道は険しそうだな」
「遠いわねぇ。実力はあるんだけど、今一歩惜しいのよね」
「おいこら! お前ら、容赦ねぇな!?」
憤慨するカールに向かって、アンナが微笑を深めながら言葉にする。
「期待しているからこそよ?」
「私はお前が駆け上がってくるのを、今か今かと待っているのだからな。頼むぞ」
「おう、任せとけ!」
勢いだけは一人前の返事に、アンナはふっと肩を揺らしながら笑った。
そして、ふと窓の外に視線を移す。沈みゆく太陽が西の空をわずかに染め、青紫に溶けかけた空が夜の訪れを告げていた。
「さて。せっかくだし、今日は三人で夕食でもどう? 久しぶりに、顔を合わせて話すのも悪くないでしょう?」
「お、いいなそれ。腹も減ってきたとこだし! グレイのために、酒買ってきてんだよ。四人で飲もうぜ!」
当然のように四人と言ったカールの一言に、アンナの胸が静かに締め付けられる。そして、同時に温かいものが、胸の奥にぽっと灯る。
「……そうだな、四人で飲むか」
「きっと喜ぶわ。ありがとう」
二年前は、笑える日が来るとは思ってもいなかった。
けれど実際は、こうして笑って話せる人たちがいる。その事実が、アンナの心にゆっくりと沁み込んでいく。
(グレイ、私は元気よ。ちゃんと、支えてくれる人たちがいるの。きっと、あなたにも見えているわよね?)
その夜、三人は笑い声の絶えない夕餉を囲んだ。
酒を酌み交わしながら、思い出話に花が咲く。
窓際では、秋風がやわらかにカーテンを揺らしていた。
誰も欠けていない──そう錯覚してしまうほど、満ち足りた夜だった。
こうして、穏やかでやさしい秋の夜が、静かに、深く更けていった。




