248.誰かに気づいてほしいなんて、思っちゃダメ
翌朝から、ルティーは王宮に姿を見せなくなった。
アンナが王都へ戻るまで、あと六日。
それまでルティーは正式な休暇扱いになっている。無理に通う義務もなければ、顔を出さなかったところで誰も気に留めはしない。
ただ王宮にいた方が、もしアンナが予定より早く戻ってきたときにすぐ対応できる──その程度の意味しかなかった。
トラヴァスに勉強を見てもらえるという副次的な理由もあったが……今のルティーにとっては、そんなことよりも脚の傷を癒やす方が先決だ。
(六日もあれば、きっと……なんとかなる。安い低級ポーションなら買えるし、痛みさえ我慢できれば、歩くくらいなら誤魔化せるはず)
洗濯桶の水面に、赤茶けた水が波紋を描いて揺れた。
スカートについた血は、丁寧に時間をかけて落とした。布地に染み込んだ鉄のにおいが鼻をつくたび、胸は重くなる。
(予備の服はあるし、申請すれば替えもいただけるけど……でも、あまりに何度も申請すれば、不審に思われるわ)
陽の当たる窓辺に、まだ湿り気を帯びたスカートを干す。裾の切り裂かれた部分は、完全に乾いてから縫い直すしかない。
(中に服を着ておいて……こんなことが起こった時にはすぐに脱いで、汚さないようにしよう……)
その日は結局、強まる痛みに耐えきれず、包帯だけを交換して、一日中ベッドに伏せていた。
(……トラヴァス様。私がアンナ様の執務室にいないこと、おかしく思ってないかしら……ちゃんと、言い訳を用意しなきゃ……)
そう考えながら、息をひそめて過ごす。
ルティーはそれから三日間、部屋で過ごした。
四日目。
痛みは残るが、ゆっくりとであれば歩けるまでに回復し、ようやく街へ出て、低級ポーションを買い求める。
薬が効いたのか、外見上は普段通り歩けるようになった。痛みさえ噛み殺せば……の話だが。
(もう一本、ポーションを持ち歩いておこう。部屋にも……予備を置いておかなきゃ)
低級と言えど、人気商品なので、欲しい時に手に入るかどうかはわからない。
使用期限もあるので、買い溜めしておくわけにもいかないものだ。
ようやく少しだけ楽になったルティーは、この数日の遅れを取り戻そうと勉強を始める。
わからない問題に詰まると、万年筆を見ながら自然とトラヴァスの姿を思い浮かべた。
(心配……してくれているのかしら)
そんな期待が心を掠めた瞬間、ルティーはすぐにかぶりを振った。
(ううん、あるわけない。私がちゃんと休暇を満喫しているって、安心してるくらいよね。……でも)
トラヴァスの観察眼は確かで、油断すればすぐに気づかれてしまう。
だからこそ、騙しきるためには、完璧な演技が必要だった。
(臨むところよ。私、女優になりたかったんだから。絶対に、〝いつものルティー〟を演じてみせる)
そうして、わからなかった箇所をノートにまとめていく。まるで、ずっと勉強に取り組んでいた証拠のように。
しかし、その手がほんの少し震えた。
(……誰かに気づいてほしいなんて、思っちゃダメ)
思わず浮かんだ弱さに、心の奥で自嘲が混じる。
幼い子どもが甘えるように、誰かに気づいてほしい……そんなことは、叶わないとわかっているのに。
──気づかれてはいけないと、わかっていながら。
ルティーは思考を振り払い、勉強に集中しようとしたその時。部屋の扉がノックされた。
「……はい。どなたでしょうか」
呼吸を止めたまま返事をする。人が訪ねてくるなど、今まで一度もなかった。
脈拍が早まり、背筋に冷たいものが走る。また、報復の手が伸びてきたのではないかと、一瞬本気で思った。
「トラヴァスの……トラヴァス様の遣いで来た、ローズよ。開けても構わない?」
その名を聞いた瞬間、胸の奥で心臓が跳ね上がる。
トラヴァス。
彼の副官──ローズ。
(様子を見に……? 気づかれてない、わよね……?)
不安に突き動かされながらも、ルティーは痛む脚に耐え、立ち上がると扉を開けた。
そこに立っていたのは、すらりとした長身の、目を引く美貌を持つ女性だった。
「ごめんなさいね、突然」
彼女は穏やかな声でそう言って、ルティーの顔を覗き込む。
「いえ……どうかなさいましたか?」
言葉を選びつつ答えると、ローズは少しだけ笑った。
「今まで一日も欠かさず来ていたルティーが来なかったものだから、風邪でも引いたんじゃないかとトラヴァス様が気にしていたのよ。それで私が様子を見に来たってわけ」
ルティーは笑顔を見せた。舞台女優のような、自然な笑顔を。
万一にも、怪我を悟られないように。
「風邪なんて引いてません。少し、ゆっくりしようかなと思いまして」
「そうみたいね。トラヴァスは、いつもとちょっとでも違うと気にしちゃうの。細かい性分なのよ。……あ、これ、トラヴァスからのお見舞いの品よ」
中には、深い赤紫に艶めくぶどう。
黄金色に熟れた洋梨。
そして、鮮やかな紅を滴らせるように、切り分けられた柘榴の実。
熟れた果実たちは、まるで秋そのものを凝縮したかのように、甘く、芳醇な香りを漂わせていた。
「……そんな、いただけません。風邪なんて引いていませんのに」
「そう言わずにもらってあげて。トラヴァスには、あなたと年の近い甥や姪がいるから、気にしてるのよ」
優しく押し込まれるようにして、バスケットを両手で受け取った瞬間、なぜか胸の奥がほのかに温かくなった。
「トラヴァスは女子の宿舎には入れないから、代わりにきたけど……まだ子どもなのに無理させてしまったんじゃないかって、心配してたわ」
「……お気遣いをありがとうございます。トラヴァス様にも、感謝をお伝えくださいませ」
ルティーが柔らかな笑顔を演技して見せると、ローズは軽やかに踵を返した。
「じゃ、私はこれで。休暇中はゆっくり休んで、英気を養ってね」
扉を閉めてひとりきりになった部屋の中。
ルティーはそっとバスケットを机の上に置くと、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
甘い香りが、涙腺の奥をじんと刺す。
(……こんな優しさ、いらないのに)
ルティーは椅子に座ると、そのぶどうを一粒つまんだ。
皮をむいて口に含むと、噛んだ瞬間、じゅわっと瑞々しい果汁が喉奥を通り過ぎていく。
── トラヴァスには、あなたと年の近い甥や姪がいるから、気にしてるのよ。
── まだ子どもなのに無理させてしまったんじゃないかって、心配してたわ。
トラヴァスには、一人の人間として見てもらっていた気でいたのだ。
けれど、彼にとってルティーは──まだまだ、ただの子どもでしかなかったのだと痛感する。
「なん、で……っ」
ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
どれだけ痛めつけられても、我慢していた涙が、今になって。
「ふぅ、うう〜〜……っ」
唇を噛みしめながら、もう一粒ぶどうを口に運ぶ。
もう一度、もう一度──
甘くて優しすぎる味が、口の中いっぱいに広がっていく。
(ほんとに……いらないのに、どうして……っ)
机の上にある万年筆をぎゅっと握ると、ルティーはそのまま突っ伏した。
演じ続けるには、あまりにも甘すぎて──
ルティーは声を殺しながら、ひとり、涙を流し続けた。




