247.私は、これからも……見殺しにしていく
ズシャ。
鈍い音がした。
男の振り下ろした刃が刺さる音。現実味のない感触。
ルティーの太ももは、斜めに裂かれていく。
「〜〜〜〜──ッッ!!」
喉の奥から突き上げる悲鳴を、寸前でせき止めた。
痛みに震えながらも、ルティーは歯を食いしばり、必死に声を押し殺す。
叫んではいけない。
絶対に、音を漏らしてはならない。
スカートが破れ、白い肌に溢れた血が、ゆっくり地面へと伝っていく。
男は、しばし黙ってルティーを見下ろしていた。
その表情に、勝利の色はなかった。ただ、深い疲労と、どうしようもない虚無が滲んでいる。
「……もういい。てめぇと関わってると、気が狂いそうだ」
吐き捨てるように言い残し、男は背を向けた。
その背中が遠ざかる。振り返ることもなく、早足で路地裏を出て消えていった。
残されたのは、静寂だけ。
血の匂いが立ちのぼる。石畳の冷たさが、背を通じて全身に広がっていく。
キィンと響く耳鳴りの中で、ルティーはかすかに息を吐いた。
太ももからは、途切れることなく温かな血が流れ落ちていく。
裂けたスカートの向こうに、赤く染まる肌がのぞく。
熱い──けれど、それ以上に、心の内側が冷たかった。
ルティーは、医療隊なら誰もが常備しているスカーフを取り出すと、太ももへと巻きつける。
血の滲む傷口に、ぎゅっと圧がかかった瞬間──
「……っ……!」
視界が白く弾けた。
吐き気すら伴う激痛に、喉の奥から声が漏れそうになる。だが、ルティーは唇を噛み、ひたすら耐えた。
「はぁ……はぁっ……」
痛みを逃がすように、荒く息を吐く。
それでもすぐには動かない。呼吸を整えるように、何度かゆっくりと肩を上下させ──
息をつめるようにして、ルティーはゆっくりと体を起こした。
脚に激痛が走り、全身が震える。
幸い、腱は無事。筋は切られていない。どうにか、歩ける。
石畳ににじむ血を、誰にも見られぬよう注意を払いながら──
ルティーは足を引きずって、自室へと向かった。
***
ようやく部屋へと戻ってきたルティーは、鍵を閉める。
その瞬間、崩れるように床に座り込んだ。
痛みはひたすらに濃く、重く、刺すように響いている。
そんな中、ルティーは机へとにじり寄り、救急箱に手を伸ばす。
中に入っているのは、包帯、消毒液、そして──縫合用の針と糸。
普段ならば、誰かの命を救うために使うもの。
だが今夜、それは自身のためにある。
脚を椅子に乗せ、深く息を吸い込む。
裂かれた太ももは生々しく開き、まだ血が滲み続けていた。
タオルで血を拭いながら、ズキズキと痛む脚を椅子の上に乗せ、ルティーはなんとか準備を整える。
針に糸を通すと、手が震えた。
何度も練習し、あるいは実践して、繰り返し続けてきた動作だというのに。
自らを縫うとなると、怖くてたまらない。
しかし、覚悟を決めて息を止めると、ルティーは己の脚に針を通した。
その瞬間、顔が歪む。
意識を手放してしまいそうになりながらも、ルティーは気力だけで縫い合わせていく。
ぷつん、ぷつん──
縫合針が皮膚を貫くたび、肉を引き寄せる。
痛みが、その小さな体に静かに刻まれていく。
けれど、ルティーは涙を流さなかった。
泣いてはいけない。これもまた、自分で選んだ痛みなのだから。
この世のすべてに背を向けてでも、ただ一人を守り続けると決めた、その代償。
逃げられない。もう、後戻りはできない。
ぎゅっと唇をかみしめ、ルティーは目を伏せる。
苦しげに眉を寄せながらも、喉元に込み上げそうになったものを、必死に押さえつけて耐えた。
処置を終えると、包帯を巻き、タオルを血に染めたままそっと床に落とす。
脚はずきずきと疼いていたが、もはや麻痺に近い感覚すらあった。
(……これは、私が受けるべき罰……)
呟くようにそう思う。
誰も救わないと決めた日から、こうなることはわかっていた。
アンナ以外の者を癒さないと誓ったのは、自分自身。
だから、自分を特別扱いすることなど、決して許されないのだ。
(きっと……また、こういうことがこれからも起きるわ……)
これからも、怒りに震える者が責めに来るだろう。
癒されなかった者たち。
救われなかった命。
手を差し伸べなかったせいで、取り返しのつかない現実を背負った人たちが──
それでも、ルティーは揺るがない。
(私は、これからも……見殺しにしていく)
そう、ルティーは決めたのだ。
〝アンナ様のためだけに〟と誓った、あの日から。
もしもこの信念が揺らいでしまえば、救わなかった命に対して、あまりにも不誠実になる。
すでに一人の命の灯火が、ルティーの前から消えているのだ。
今さら、この信念を取り消すなどできない。
決めた以上は、たとえどれほど苦しくとも、貫くしかない、と。
だから──
この程度の傷で、揺らいではいけない。
この程度の痛みで、迷ってはいけない。
ルティの視界が、ぐらりと傾いた。
出血と疲労。意識が薄れていくのを感じる。
それでも、ルティーは微かに笑った。
壊れていると、わかっている。
それでも。
これが、ルティーにとっての〝正義〟なのだから。
ゆっくりとベッドに身を横たえる。
天井を見つめ、まぶたを閉じる。
誰かを見殺しにするたび、少しずつその身に傷を刻んで──
それでもルティーは、アンナの隣で微笑み続けるだろう。
幼き頃から培われたその演技力で、微塵も疑われることなどなく。
それが、彼女にとっての──〝幸せ〟だから。




