246.見えるところには、やめて、ください……
唐突だった。
腕を引かれ、気づけば薄暗い路地裏。
乱暴に背を押され、ルティーは乾いた壁へと追い詰められていた。
目の前に立つのは、見知った騎士の一人。
名は思い出せない。ただ、記憶の片隅にその顔はあった──医務室の外で、血に濡れた誰かを抱えて泣き叫んでいた男。
瞬間、理解が胸を突いた。
「どうしてお前なんかに、水魔法の才能があるんだ?」
低く唸るような問い。
その視線は氷のように冷たく、そして怒りに赤く染まっていた。
男の身体は分厚く、影がルティーの細身を覆い尽くす。
逃げ道はない。喉の奥がひりついた。
だがルティーは、ぎゅっと唇を噛んで震えを押し殺す。
「お前さぁ……誰も癒してねぇよな? 俺の親友が大怪我を負った時も……駆け込んだ医務室で、お前は魔法を使おうともしなかった……!!」
その叫びに、心臓が跳ねた。過去の情景が脳裏にフラッシュバックする。
確かにルティーは、彼の前でなにもしなかった。しなかったのだ。
「けどよ……すげぇ力、持ってんだよな? アンナ様があれだけぼろぼろにされても、復活できるくらいのよ……」
「それでも、すぐに全快というわけには──」
「できんだろうが!!」
怒声とともに、胸ぐらを掴まれた。
壁に叩きつけられ、息が詰まる。視界がぐらりと揺れた。
「ゾルダン先生はよぉ……ルティーを責めんなっつってたけどよ……贔屓、だよなぁ……」
「ぅ……ぅう……」
呼吸がうまくできない。男の指が喉元を締めつけ、肺が焼けつくように苦しい。
それでもルティーは、ぐっと耐える。
「……自分がどれだけ冷たいことしてるか、わかってんのかよ」
男の手は、微かに震えていた。怒りだけではない、なにか別の感情がそこにはあった。
悔しさか、あるいは──喪失。
「あいつはな……郊外での訓練中に魔物にやられて、脚を潰された。剣が命だったやつだ。俺があいつを連れて医務室に駆け込んだ時……てめぇはそこにいたのに、なにもしなかったよな……!!」
言葉がルティーの心を裂いていく。
それは、三ヶ月前の出来事。あの日のことは忘れてなどいない。忘れられるはずもない。
「……あいつ、立ち直ろうとしてたのに……先週、飛び降りたんだ……」
ルティーの喉がひゅっとが音を立てて震えた。
鈍器で打ち付けられたかのような衝撃。ルティーは崩れ落ちそうになる脚に、必死の思いで力を込める。
「騎士を辞めて三ヶ月……あいつはずっと、絶望し続けてたんだ……あいつを絶望させたのは、お前だ!!!!」
怒鳴り声と共に背を強く叩きつけられ、肺がきしむ。
石の冷たさが、体の芯まで冷やしていく。
「お前は癒せたはずだよな? なのに、なんで……!」
叫ぶ声に、ルティーは何も返せなかった。
重く、熱いものが胸の奥で膨らんで、息ができない。
刺すような声だった。罵倒ではない、ただ静かに、残酷に真実をなぞる声。
そしてそれは──ルティにとっても、否定できない事実だった。
「……なにを言っても無駄なんだよな」
男はルティーを見下ろしてぽつりと呟く。
「どうせ、お前は……」
そして、その目に怒りを宿しながら。
「……俺がいくら痛めつけても、自分のことは癒すんだろうけどな……!」
今にも爆発しそうな怒り。握られた拳に、ルティーは首を振って答える。
「……癒し、ません」
「は?」
かすれながらも確かな意志を持った声に、男は顔を歪ませた。
「……私は……アンナ様以外、癒さないと決めてますから……」
「殺されても、か?」
男の動きがぴたりと止まる。
目だけが、ぎらついた獣のようにルティーを射抜いた。
一瞬の静寂。
その空白を裂くように──
ドンッ!!
鈍く重い音が、路地裏の壁に跳ね返る。
息を呑む間もなく、男の拳がルティーの腹をえぐった。
「──ッッ!」
肺から空気が強制的に吐き出される。
腹を押さえ、ルティーの身体が折れ曲がるように前方に倒れ込んだ。
今まで感じたことのない激痛に、石畳の上でガクガクと体を震わせる。
「本当に癒さねぇか、確かめてやる」
男がナイフを抜き放つ。冷たい刃が、光を反射してギラリと輝いた。
次の瞬間、それは迷いなくルティーへと向けられる。
「やめ……げほっ! やめて、ください……」
か細い懇願。だがそれは、男の怒りを逆撫でするだけだった。
「てめぇ! やっぱり自分がやられんのは嫌だってのか!? あいつがどれだけ苦しんだと──」
「見えるところには、やめて、ください……」
ルティーの声が静かに遮った。
まだ強い痛みを感じながら、それでも、凛とした目を男へと向ける。
「あなたの苦しみも……亡くなった方の痛みも、受け入れます……だけど……見えるところに傷を作られては……私も、あなたも、困ることになりますから……」
もしルティーが、誰かに襲われたと知れ渡ってしまったら──
とりわけ、アンナや、あの優しい大人たちの耳に入ってしまえば。
きっと、彼らは迷うことなく動くに違いない。
その先に待っているのは、ルティーの水魔法の〝管理〟だ。
癒すべき相手は、彼女の意思ではなく、外から決められることになるかもしれない。
それだけは、どんなことがあっても避けなければならない。
ルティーが、自分の手で守りたいと願った相手のために。
だからこそ──この痛みも、この傷も。
誰にも、知られてはならない。
「いい覚悟じゃねぇか。あいつの痛み、思い知らせてやる!」
怒鳴ると同時に──男の腕は、ルティーの脚へと振り下ろされた。




