245.早く……会いたい、ですね?
アンナがシウリスとの手合わせで重傷を負ったのは、ちょうど一週間前のことだった。
命を落としかけながらもルティーの懸命の治療により回復し、その傷が癒えるやいなや、彼女は休暇を使って王都を離れていった。
筆頭大将の任務は、代行のトラヴァスが務めている。
そして、アンナが戻るまでの間──そのトラヴァスの口から、ルティーにも休暇が告げられていた。
しかしルティーは、毎日まっすぐに王宮へと足を運んでいる。
「アンナ様……今頃、なにをしていらっしゃるかしら……」
つぶやく声は小さくとも、愛おしさに満ちていた。
ここは筆頭大将の執務室。今、その主はいない。
だけどルティーにとって、この場所は心を落ち着けられる、唯一の場所であった。
空気は凛としていて、窓から差す光が、彼女の金髪を柔らかく照らしていた。
宿舎にいたところで、することは変わらない。
だからここで学校の勉強をし、水の書を開いては黙々と読み込んでいる。
時折、資料を探しに来たトラヴァスへ手渡す場面もあった。
彼はルティーの疑問にも丁寧に答えてくれたし、勉強が長引けば「そろそろ帰りなさい」と声をかけてくれることもある。
(私も、アンナ様の休暇についていきたかったけど……)
思わず浮かぶ妄想に、頬がふんわりと緩んだ。
旅路の途中で寄る街角、市場での食べ歩き、宿屋の小さな部屋で並んで眠る夜──。
隣にアンナがいるだけで、どんな日々だって宝物になる。
だけどルティーは、アンナの体調を気遣ってしまうだろう。
逆に、アンナもまた、体力のないルティーを無理に連れ回したりはしない。
気を遣わせたくはなかった。だからルティーは、一緒に行かせてくださいという一言を、喉の奥でそっと飲み込んだのだ。
深く、細い息をひとつ。
そして、再び水の書に目を落とす。
この書は、すでに何百回と読み込んだものだった。
中の言葉は隅から隅まで頭に入っている。それでも三冊目の書が、体内に取り込まれる感覚はまだ来ない。
退屈というより、苦痛。
けれど、彼女にはこれしか魔法のレベルを上げる術がなかった。
アンナ以外には、魔法は使わないと決めているから。
一般的には、魔法は使用を重ねることで精度も力も増していく。
だが、アンナが怪我を負う機会など、そう何度もあるものではない。
(もっと、魔法のレベルを上げないと……)
心を支配するのは、焦燥だった。
一週間前の十月七日。去年と同じように、アンナはシウリスとの手合わせで命の淵に立たされた。
二年連続。それが意味するものは──来年も、再来年も、さらにその先の年も、ずっと同じことが起こる可能性。
(どうしよう……他の人も治して、レベルを上げるべき? でも肝心な時に魔法力が切れていたら……)
ふと脳裏をよぎるのは、アリシアの時の記憶だ。
あの時のように、もし魔力が切れたらと思うと、背筋が凍る。
(だめ……やっぱり、私の魔法はアンナ様以外に使えない!)
ルティーは自分に言い聞かせた。
王宮の内外には、いつどこで敵が現れるかわからない。
隣国の脅威も、魔物の襲撃も。そして──もっとも危険な人は、王宮内にいるのだから。
(私の使命は、アンナ様を守ること……それ以外は、考えなくていい……っ)
そう心に言い聞かせながら、ルティーは粛々と水の書に向かい続けた。
だが、その静寂を破るように、扉をノックする音が響く。
部屋に入ってきたのは、代行の筆頭大将──トラヴァスだ。
「ルティー。終業の鐘は聞こえなかったか?」
いつもと変わらぬ静かで低い声音。
「……いえ。今終わろうと思っていたところです。トラヴァス様は……」
「もう一仕事してから帰るが、先にルティーの勉強をみようと思ってな。どこか、わからないところはなかったか?」
そう言って彼は、すっと彼女の隣へと腰を下ろす。
休暇に入ってから毎日のように続いている、穏やかな夕暮れの風景。
ルティーが迷っていた箇所を指し示すと、トラヴァスはそれに目を通し、丁寧に、けれど要点を外さず教えてくれた。
「いつもありがとうございます、トラヴァス様」
礼を述べるルティーに、彼はわずかに目を細める。
「私も息抜きにちょうどいいのだ。ルティは飲み込みも早く、教え甲斐があるしな」
「……ありがとう、ございます」
ルティーのお礼の言葉に、トラヴァスはそっと目を細める。
そのあたたかなやりとりも、いまや日常のひとつになりつつあった。
「アンナはあと五日は戻らないだろう。もう今日は帰りなさい。送ろうか」
促すトラヴァスに、かすかに首を振る。
「いえ、平気です。まだ明るいですから」
ルティーの言葉に、トラヴァスはふと窓の外へと視線を投げた。
夕焼けに染まる空、そして街並み。
けれど彼の視線は、風景を見るというより──誰かを、探すようで。
「早く……会いたい、ですね?」
ルティーが、そっと声をかける。
彼は変わらぬ無表情のまま、視線を動かさずに答えた。
「無事であればそれでいい」
夕日の光が彼の横顔を照らし、陰影を深く浮かび上がらせる。
その答えに、ルティーは今まで持てなかった確信を、持てた気がした。
「……はい」
それだけ返して、彼女は黙った。
〝アンナ様のことが、お好きなのですね〟
──その言葉を、飲み込んで。
(みんながアンナ様を好きになる……当然だわ。それだけの魅力がある方なんだもの)
ルティー自身、そうなのだ。
アンナ様の優しさも、強さも、気高さも……すべてを知っているからこそ。
やがて、机の上を静かに片付けたルティーは、椅子を引いて立ち上がる。
そして静かな声で言った。
「では……お先に失礼いたします」
「ああ。気をつけて帰りなさい」
その言葉に、ルティーはやわらかく微笑みを返し、そっと一礼する。
扉を開け、静かに執務室を後にした。
カシャン、と音を立てて閉まる扉の向こうに、あたたかな時間の余韻が静かに消えていく。
背中に夕焼けの余熱を感じながら、ひとり歩く心細さだけが残った。
王宮を出て正門をくぐると、街はもうすっかり夕暮れ色に染まっていた。
西の空は赤く燃え、石畳に長く影が落ちる。
一日の終わりを告げるかのように、行き交う人々の足取りも、夕暮れに溶け込むように緩やかで。
(アンナ様、どこか遠くで、この空を見ていらっしゃるかしら……)
そんなふうに空を仰いで、胸の奥にそっと名前を浮かべたそのとき。
「……え?」
誰かの手が、唐突にルティーの腕を掴んだ。
冷たい感触。力強く、逃がす気のない拘束。
抵抗する間もなく、そのまま横道へと引きずり込まれる。
その視界に、空はもう──なかった。




