244.よく言われちゃうけれど、ただの一般庶民よ
クロエとブラジェイが、アンナの隣のテーブルに腰を落ち着け、グラスを鳴らしながら語り合っていた。酔いを楽しむというより、酒を煽って心の底をさらけ出すような、どこか焦げついた会話。
「ところでブラジェイ。最近のあの人の様子はどうだい?」
クロエの問いに、ブラジェイはグラスを傾けてひと息で中身を流し込んだ。
「あー、あいつか? 相変わらずだな。陽の当たらねぇ場所にいて、俺らにあれこれ指示だけしてきやがる」
「そうか」
──彼。あの人。
アンナはパンの白い中身を指先でちぎり、スープにそっと沈めながら、心の中でその言葉を繰り返す。
(ミカヴェル……のことかしら)
「クロエ……おめぇはあいつを信用してるようだがな。あいつはどうにも、得体がしれねぇぜ」
「ブラジェイは、あの人を信用できないのかい?」
クロエの問いに、ブラジェイは少し眉間に皺を寄せ、そして視線をクロエの瞳に真っ直ぐ重ねる。酔いも演技もない、率直な眼差し。
「おめぇが信用しろってんなら、信用するさ。俺らの大将だからな」
「……あたしなんてなんの力も持ってない、ただの頭でっかちな女だよ」
「それでも、この国のトップのうちの一人だ。俺らみてぇな替えのきく兵士とは、訳が違うだろ」
その言葉に、クロエの眉がほんの少し動いた。わずかに苦い、けれど確かな想いが顔に滲む。
「あんたこそ、替えがきかないよ。カジナル軍に必要な男だ」
「そりゃ……個人的にって意味か?」
「ふふ。さて、どうだろうね」
クロエの軽口に、ブラジェイは笑いもせず、ただ酒を煽ってグラスを置いた。
「なんにせよ、おめぇは死なせねぇよ、クロエ。この国の希望だからな」
「……大袈裟だよ。あたしにはなんの力もない」
クロエがそう呟いたその瞬間、ブラジェイの声が、それを断ち切るように被さる。
「クロエ」
その名を呼ぶ声は、火を灯すように温かく、静かに響いた。
「それでもお前は、この道を選んで歩んで来てんだ。少なくとも、俺の希望であることは確かだぜ。……覚えとけ」
「……嬉しいこと、言ってくれるじゃないか」
照れも呆れも混じったクロエの言葉のあと、テーブルに料理が運ばれてきた。香ばしい湯気が立ち上り、気取らない食欲を誘う匂いが漂う。
ブラジェイは豪快にポテトを手づかみでバクリと頬張り、クロエは少し慎重にフォークで口へ運んだ。
「あんたは昔っからそうだ……欲しい時に、欲しい言葉をくれる」
「今の立場がどうしても重荷だってんなら、捨てちまっても構わねぇさ。そん時にゃ、全力で守ってやるよ」
そう言ったブラジェイの声音には、揺るがぬ意思が宿っていた。クロエはひとつ、鼻から息を抜きながら苦笑する。
「……ばかだね、ブラジェイ。立場を失くしたあたしなんて、守る価値なんかないよ」
「俺には十分、価値がある」
その一言に、クロエの手が止まった。
フォークの先に刺したポテトが、かすかに揺れながら宙に止まる。けれど彼女はそれを口に運ばず、そっとブラジェイの顔を見つめた。
店内の喧騒が、不意に遠ざかる。
彼の言葉は、酒の勢いでも、気の利いた冗談でもなかった。
それは重く、まっすぐで、嘘のない想い。
「……ほんと、ずるいよ。そういうこと、簡単に言うんだから」
クロエはフォークをそっと置き、グラスの縁を指先でなぞった。その仕草には、言葉にできない余韻がこもっている。
「昔なら……それだけで、どこまでも走れたんだけどね」
ブラジェイは笑わなかった。
ただ、なにも持たないその拳を、そっとテーブルに置いた。
「今だって、変わらねぇさ。……なにもかもを、背負おうとすんな。たまには、預けりゃいい」
クロエの目が、少し細まる。
笑うでも、泣くでもない。けれど胸の奥に波紋が走っていくように、指を震わせた。
「……それ、あんたが言うと、ちょっと信じられるから、やめてほしいね」
ふっと息を吐きながら呟くクロエに、ブラジェイは「ほらよ」と言って、彼女のグラスに酒を注ぎ足した。琥珀色の液体がグラスの中で揺れ、光を反射して踊る。
「じゃあ、せめて今は、飲んで忘れろ。な?」
「……はぁ、仕方ないねぇ」
クロエは肩をすくめ、グラスを手に取った。
「どうせ、朝には全部また戻ってくる。責任も、立場も、あたし自身も」
「戻ってくるもんがあるだけ、幸せってもんだろが」
軽く笑ったブラジェイに、クロエがふっと眼差しを緩める。
「乾杯、だな」
「乾杯」
ふたりのグラスがぶつかると、カチンと涼やかな音が響いた。
その音を耳にしながら、アンナはそっとスプーンを置いた。最後のパンのひとかけをスープに落とし、小さく息をつく。
(……ああいう絆が、あるのね)
敵の陣営に身を置く者たち──それでも、その言葉や表情の端々に宿るものは、ただの人間としての苦悩と、確かな情だった。
ウェイトレスが新たな皿を運んできた。林檎のタルト。小ぶりで、見るからに焼きたて。香ばしいバターの香りが立ちのぼる。
「お隣様からです」
そう告げられて、アンナは隣のテーブルへと視線を向ける。
「ありがとう、これ、いただくわ」
そう言うと、クロエは軽くグラスを掲げて、にやりと笑った。
「どういたしまして。甘いもの、好きそうだったからね」
「あら、鋭いのね」
アンナは微笑みを返し、フォークを手に取った。
タルトの生地はさくりと音を立て、まだ温かいリンゴの香りが広がる。甘酸っぱさとほのかなシナモンが、舌の上にじんわりと広がった。
(……敵に甘やかされてるなんて、ほんと、皮肉ね)
けれどそこにあるのは、ただのささやかな気遣いだった。
それだけのことが、今のアンナには不思議なほど心に沁みていく。
隣の二人は、また言葉を交わし始める。
「クロエは昔から、気のつく女だよな」
「あんたが鈍感過ぎるのさ」
「ぁあ? そっかぁ??」
「そういうとこだよ」
クロエはおかしそうにふっと笑う。ブラジェイは理解が及ばないと言った表情で眉を寄せた。
「いくら鈍感なあんたでも、自分の気持ちくらいは気づいているんだろう? 〝守る〟なんて言葉を、あたしに使うもんじゃないよ。あの子に……言っておあげ」
「……なんのことだか、わかんねぇな」
肉にかぶりつくブラジェイを見て、クロエは息をひとつ、深く吐いた。
「まったく……素直じゃないねぇ。そんなことだと、ユーリアスに取られっちまうよ」
「うるせぇ。関係ねぇよ」
(なんの話かしら)
アンナはフォークを皿に置き、デザートを食べ終えると立ち上がった。これ以上の長居は不要だ。
「ありがとう。とてもおいしかったわ」
「それはよかった。外はもう暗いから、気をつけて帰りな」
「ええ」
アンナがリードを軽く引くと、足元のイークスがすっと立ち上がる。
そしてそのまま静かに店を後にしようとした、その時。
「嬢ちゃん。いいとこ育ちのようだが、随分と鍛えてるみてぇだな?」
背後から飛んできたブラジェイの声に、アンナはぴたりと歩みを止め、振り返りざまに微笑みを浮かべた。
「よく言われちゃうけれど、ただの一般庶民よ。体を鍛えるのは、趣味ってだけ」
「ほう。じゃあカジナル軍に入らねぇか?」
冗談半分の誘いに、アンナは片眉を上げてから、少し肩をすくめた。
「それはありがたいお誘いだけど……軍隊の朝は早いんでしょう? 朝が苦手なの」
「なんでぇ、それだけで断るのか?」
ブラジェイは眉をひそめつつも、笑いを含んだ声で返した。
アンナは軽く肩をすくめて、言葉を返す。
「だって、毎朝槍を振るような生活より、焼きたてのパンの香りで目覚めたいわ」
「そりゃ贅沢ってもんだぜ」
苦笑まじりに言うブラジェイに、アンナは口元に笑みを残したまま返す。
「ふふ、そうね。でも誘われるなんて、少し嬉しかったわ。……ありがとう」
アンナはふっと目元を緩め、素直に礼を告げた。
クロエがグラスを傾ける。わずかに口元を緩めながら、ちらりとブラジェイを横目に見た。
「なんだよ、クロエ」
「あんたが女を口説くなんて、珍しいこともあるもんだと思ってね」
「……口説いてねぇだろがよ」
クロエは喉の奥でくっくと笑う。
反応に困ったアンナは、もう潮時だと軽く頭を下げた。
「それじゃあお二人とも、いい夜を」
「嬢ちゃんもな。暗い道にゃ気をつけろよ」
「ええ」
イークスが鼻を鳴らし、アンナの足元に寄り添う。
代金を払い、扉を開くと、夜の涼やかな空気がふわりと頬を撫でた。
(なんとか、気づかれずに済んだようね……)
小さく息をこぼしながら、アンナは宿のある通りへと、静かに歩き出した。




