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あなたを忘れる方法を、私は知らない  作者: 長岡更紗
光の剣と神の盾〜筆頭大将編 第一部 始動〜

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246/391

244.よく言われちゃうけれど、ただの一般庶民よ

 クロエとブラジェイが、アンナの隣のテーブルに腰を落ち着け、グラスを鳴らしながら語り合っていた。酔いを楽しむというより、酒を煽って心の底をさらけ出すような、どこか焦げついた会話。


「ところでブラジェイ。最近のあの人の様子はどうだい?」


 クロエの問いに、ブラジェイはグラスを傾けてひと息で中身を流し込んだ。


「あー、あいつか? 相変わらずだな。陽の当たらねぇ場所にいて、俺らにあれこれ指示だけしてきやがる」

「そうか」


 ──彼。あの人。

 アンナはパンの白い中身を指先でちぎり、スープにそっと沈めながら、心の中でその言葉を繰り返す。


(ミカヴェル……のことかしら)


「クロエ……おめぇはあいつを信用してるようだがな。あいつはどうにも、得体がしれねぇぜ」

「ブラジェイは、あの人を信用できないのかい?」


 クロエの問いに、ブラジェイは少し眉間に皺を寄せ、そして視線をクロエの瞳に真っ直ぐ重ねる。酔いも演技もない、率直な眼差し。


「おめぇが信用しろってんなら、信用するさ。俺らの大将だからな」

「……あたしなんてなんの力も持ってない、ただの頭でっかちな女だよ」

「それでも、この国のトップのうちの一人だ。俺らみてぇな替えのきく兵士とは、訳が違うだろ」


 その言葉に、クロエの眉がほんの少し動いた。わずかに苦い、けれど確かな想いが顔に滲む。


「あんたこそ、替えがきかないよ。カジナル軍に必要な男だ」

「そりゃ……個人的にって意味か?」

「ふふ。さて、どうだろうね」


 クロエの軽口に、ブラジェイは笑いもせず、ただ酒を煽ってグラスを置いた。


「なんにせよ、おめぇは死なせねぇよ、クロエ。この国の希望だからな」

「……大袈裟だよ。あたしにはなんの力もない」


 クロエがそう呟いたその瞬間、ブラジェイの声が、それを断ち切るように被さる。


「クロエ」


 その名を呼ぶ声は、火を灯すように温かく、静かに響いた。


「それでもお前は、この道を選んで歩んで来てんだ。少なくとも、俺の希望であることは確かだぜ。……覚えとけ」

「……嬉しいこと、言ってくれるじゃないか」


 照れも呆れも混じったクロエの言葉のあと、テーブルに料理が運ばれてきた。香ばしい湯気が立ち上り、気取らない食欲を誘う匂いが漂う。


 ブラジェイは豪快にポテトを手づかみでバクリと頬張り、クロエは少し慎重にフォークで口へ運んだ。


「あんたは昔っからそうだ……欲しい時に、欲しい言葉をくれる」

「今の立場がどうしても重荷だってんなら、捨てちまっても構わねぇさ。そん時にゃ、全力で守ってやるよ」


 そう言ったブラジェイの声音には、揺るがぬ意思が宿っていた。クロエはひとつ、鼻から息を抜きながら苦笑する。


「……ばかだね、ブラジェイ。立場を失くしたあたしなんて、守る価値なんかないよ」

「俺には十分、価値がある」


 その一言に、クロエの手が止まった。


 フォークの先に刺したポテトが、かすかに揺れながら宙に止まる。けれど彼女はそれを口に運ばず、そっとブラジェイの顔を見つめた。


 店内の喧騒が、不意に遠ざかる。

 彼の言葉は、酒の勢いでも、気の利いた冗談でもなかった。

 それは重く、まっすぐで、嘘のない想い。


「……ほんと、ずるいよ。そういうこと、簡単に言うんだから」


 クロエはフォークをそっと置き、グラスの縁を指先でなぞった。その仕草には、言葉にできない余韻がこもっている。


「昔なら……それだけで、どこまでも走れたんだけどね」


 ブラジェイは笑わなかった。

 ただ、なにも持たないその拳を、そっとテーブルに置いた。


「今だって、変わらねぇさ。……なにもかもを、背負おうとすんな。たまには、預けりゃいい」


 クロエの目が、少し細まる。

 笑うでも、泣くでもない。けれど胸の奥に波紋が走っていくように、指を震わせた。


「……それ、あんたが言うと、ちょっと信じられるから、やめてほしいね」


 ふっと息を吐きながら呟くクロエに、ブラジェイは「ほらよ」と言って、彼女のグラスに酒を注ぎ足した。琥珀色の液体がグラスの中で揺れ、光を反射して踊る。


「じゃあ、せめて今は、飲んで忘れろ。な?」

「……はぁ、仕方ないねぇ」


 クロエは肩をすくめ、グラスを手に取った。


「どうせ、朝には全部また戻ってくる。責任も、立場も、あたし自身も」

「戻ってくるもんがあるだけ、幸せってもんだろが」


 軽く笑ったブラジェイに、クロエがふっと眼差しを緩める。


「乾杯、だな」

「乾杯」


 ふたりのグラスがぶつかると、カチンと涼やかな音が響いた。

 その音を耳にしながら、アンナはそっとスプーンを置いた。最後のパンのひとかけをスープに落とし、小さく息をつく。


(……ああいう絆が、あるのね)


 敵の陣営に身を置く者たち──それでも、その言葉や表情の端々に宿るものは、ただの人間としての苦悩と、確かな情だった。


 ウェイトレスが新たな皿を運んできた。林檎のタルト。小ぶりで、見るからに焼きたて。香ばしいバターの香りが立ちのぼる。


「お隣様からです」


 そう告げられて、アンナは隣のテーブルへと視線を向ける。


「ありがとう、これ、いただくわ」


 そう言うと、クロエは軽くグラスを掲げて、にやりと笑った。


「どういたしまして。甘いもの、好きそうだったからね」

「あら、鋭いのね」


 アンナは微笑みを返し、フォークを手に取った。

 タルトの生地はさくりと音を立て、まだ温かいリンゴの香りが広がる。甘酸っぱさとほのかなシナモンが、舌の上にじんわりと広がった。


(……敵に甘やかされてるなんて、ほんと、皮肉ね)


 けれどそこにあるのは、ただのささやかな気遣いだった。

 それだけのことが、今のアンナには不思議なほど心に沁みていく。


 隣の二人は、また言葉を交わし始める。


「クロエは昔から、気のつく女だよな」

「あんたが鈍感過ぎるのさ」

「ぁあ? そっかぁ??」

「そういうとこだよ」


 クロエはおかしそうにふっと笑う。ブラジェイは理解が及ばないと言った表情で眉を寄せた。


「いくら鈍感なあんたでも、自分の気持ちくらいは気づいているんだろう? 〝守る〟なんて言葉を、あたしに使うもんじゃないよ。あの子に……言っておあげ」

「……なんのことだか、わかんねぇな」


 肉にかぶりつくブラジェイを見て、クロエは息をひとつ、深く吐いた。


「まったく……素直じゃないねぇ。そんなことだと、ユーリアスに取られっちまうよ」

「うるせぇ。関係ねぇよ」


(なんの話かしら)


 アンナはフォークを皿に置き、デザートを食べ終えると立ち上がった。これ以上の長居は不要だ。


「ありがとう。とてもおいしかったわ」

「それはよかった。外はもう暗いから、気をつけて帰りな」

「ええ」


 アンナがリードを軽く引くと、足元のイークスがすっと立ち上がる。

 そしてそのまま静かに店を後にしようとした、その時。


「嬢ちゃん。いいとこ育ちのようだが、随分と鍛えてるみてぇだな?」


 背後から飛んできたブラジェイの声に、アンナはぴたりと歩みを止め、振り返りざまに微笑みを浮かべた。


「よく言われちゃうけれど、ただの一般庶民よ。体を鍛えるのは、趣味ってだけ」

「ほう。じゃあカジナル軍に入らねぇか?」


 冗談半分の誘いに、アンナは片眉を上げてから、少し肩をすくめた。


「それはありがたいお誘いだけど……軍隊の朝は早いんでしょう? 朝が苦手なの」

「なんでぇ、それだけで断るのか?」


 ブラジェイは眉をひそめつつも、笑いを含んだ声で返した。

 アンナは軽く肩をすくめて、言葉を返す。


「だって、毎朝槍を振るような生活より、焼きたてのパンの香りで目覚めたいわ」

「そりゃ贅沢ってもんだぜ」


 苦笑まじりに言うブラジェイに、アンナは口元に笑みを残したまま返す。


「ふふ、そうね。でも誘われるなんて、少し嬉しかったわ。……ありがとう」


 アンナはふっと目元を緩め、素直に礼を告げた。

 クロエがグラスを傾ける。わずかに口元を緩めながら、ちらりとブラジェイを横目に見た。


「なんだよ、クロエ」

「あんたが女を口説くなんて、珍しいこともあるもんだと思ってね」

「……口説いてねぇだろがよ」


 クロエは喉の奥でくっくと笑う。

 反応に困ったアンナは、もう潮時だと軽く頭を下げた。


「それじゃあお二人とも、いい夜を」

「嬢ちゃんもな。暗い道にゃ気をつけろよ」

「ええ」


 イークスが鼻を鳴らし、アンナの足元に寄り添う。

 代金を払い、扉を開くと、夜の涼やかな空気がふわりと頬を撫でた。


(なんとか、気づかれずに済んだようね……)


 小さく息をこぼしながら、アンナは宿のある通りへと、静かに歩き出した。


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