243.私、煙草の匂いが苦手なの
「フィデル国、初めて入るのよね……」
アンナは立ち止まり、眼下に広がる異国の街並みを見下ろして小さく息を吐いた。空気の匂いが違う。風の温度も、木々のざわめきも、どこか馴染まぬ気配を帯びていた。
その傍らには、ラストアスハスキーのイークスが静かに寄り添っている。
身に纏っているのは、群青の騎士服ではない。
目立たぬよう、一般市民になりすました控えめなスカート姿。そしてその太ももには、密かに短剣を忍ばせていた。防衛のための、最小限の武器。
黒々としていた髪は、特殊な粉で一時的に栗色に変えてある。だが、漆黒の瞳までは誤魔化せない。正体を隠し通せるのかという不安が、ないわけではなかった。
──ここは、敵国フィデル。
ストレイア王国の筆頭大将である自分が、無防備に敵地へ足を踏み入れている。その事実が、鼓動を一際強く打たせていた。
「気づかれないわよね……街の様子も見てみたいけれど、危険かしら」
不安を紛らわすように独りごちて、アンナは足元のイークスに視線を落とした。イークスは静かに彼女の気配を感じ取り、小さく尻尾を振る。敵の気配は、今のところ、ない。
数日前まで、アンナは自室のベッドに横たわっていた。
そう、去年と同じように。
それは、十月七日──グレイの二度目の命日のことだった。
シウリスとの、二度目の手合わせ。
粘りはしたが、最終的にアンナは意識を手放した。
──アンナ様、アンナ様ぁ!
そう叫ぶルティーの声が、遠くに聞こえていたことだけは覚えている。
目覚めたとき、全身にまとわりついていたのは重く、冷たい苦痛だった。まるで水底に沈み、藻に絡め取られているかのような感覚。指先ひとつ、動かすことすらできなかった。
その身に刻まれた傷は、やはり今年も命の境を彷徨わせるほどのものだった。命を繋いだのは、ルティーの回復魔法である。そして再び二週間の休暇を与えられ、筆頭大将の職務はトラヴァスに託した。
同行するのは、ただ一匹……イークスのみ。
向かう先を迷った末、アンナが選んだのは、フィデル国だった。
今しかない。この機を逃せば、トラヴァスやカールたちが止めに入るに違いないのだから。
だが、アンナはどうしても、見ておきたかった。
敵国の風景を、空気を、人々の暮らしを──。
「こっちにもコムリコッツの遺跡ってあるのね……当たり前か。世界中に散らばっているんだものね」
誰に向けるともなく呟き、アンナは小高い丘の遺跡に足を踏み入れた。わくわくする胸の高鳴りが、危険を忘れさせる。
だが理性は健在だった。無理な探索はせず、危険の気配が濃くなれば即座に引き返す。
それでも、十分だった。そこにある空気、苔むした石壁、古の文様。そのひとつひとつが、過去からの呼び声のようで、アンナの探究心を満たしてくれた。遺跡ごとに表情が異なるのも、また一興だった。
日が落ちる前に、カジナルシティの街中へと歩を進める。
王都とはまるで異なる風景が広がっていた。荘厳な王宮もなく、豪奢な貴族の屋敷も見当たらない。低く小さな家々が、所狭しと並び立ち、夕暮れにもかかわらず人通りは賑やかだった。
商人の声、笑い声、焼き立てのパンの香り。街が生きていると、はっきり感じられる。
アンナは、その雑踏の中で一軒の食事処に入った。
犬連れの入店は戸惑われたが、足元で大人しくできるなら構わないとの許可が下りた。イークスはアンナの足元で、静かに伏せる。見えない存在になりきるように。
運ばれてきた料理は、どれもストレイアのそれとは風味が異なっていた。慣れない香辛料が口の中でピリリと弾ける。同じような食べ物でも異なる味付けに、旅情が刺激された。
アンナは静かに食しながら、ひとつ深いため息をついた。
(グレイと一緒に食べたかったわね……)
胸に疼く、淡い痛み。かつて交わした約束が、ふと脳裏に浮かぶ。いつか二人で、国外を旅しようと……そう言って笑い合ったあの夜が、まるで夢のようだ。
しかし、もうその夢が叶うことはない。
小さな寂しさが胸を打った、ちょうどその時。
「さて、たまには奢られてあげようじゃないか」
隣のテーブルに、乾いた音を立てて女が腰を下ろした。長い脚を組む動作が妙に様になっている。
続いて座った男が、ケッと笑いながらどっかりと腰を下ろした。
「ったく、てめぇの方が金はあんだろが、クロエ」
「あんたにも十分な給金は払っているはずだよ、ブラジェイ」
その名を耳にした瞬間、アンナの背筋に稲妻が走った。
──クロエ。
カジナルシティを統べる、フィデル国五聖執務官の一人。
──ブラジェイ。
百獣王の異名を持つ、カジナル軍のツートップの一角。
心臓の鼓動が、ひと際大きく耳に響く。けれど、表情筋ひとつ動かしてはならない。
目の前の食事に意識を割いているように見せかけながら、アンナはそっと瞳を伏せ、フォークを滑らかに動かす。そのすべてを演技で取り繕いながら、実際には、感覚のすべてを隣のテーブルの会話へと集中させていた。
(ティナが周りにいなければいいけれど……鼓動まで聞き取れるという話だし)
冷たい思考が脳裏を這いまわる。意識的に呼吸のリズムを整え、過剰に心を騒がせぬよう努める。
その隣では、大きな声が響いていた。
「十分ねぇ……部下の面倒見てたら、一瞬で消える額だぜ」
「どうせ給金のほとんどが酒代だろう? あたしにはわかってるよ」
「わはは! 違ぇねぇな!」
豪快な笑いと共に、ウェイトレスがエールを何杯もテーブルに並べていく。厚手のジョッキが木のテーブルにぶつかる音に、アンナの神経がほんのわずか震えた。
ブラジェイはそのうちのひとつを手に取ると、躊躇なく口をつけ、一気に中身を喉へと流し込む。
陽に焼けた肌、ダークワインレッドの短髪、首や腕に浮かぶ筋肉の線。それらすべてが、彼の二つ名である〝百獣王〟の由縁を証明していた。
姿勢ひとつとっても油断のない、戦場で鍛え抜かれた獣のような貫禄。
(この男が、カジナル軍ツートップのうちの一人……)
もう一人は、〝月の剣士〟と呼ばれる見目麗しいと噂の男だ。
トラヴァスとカール、ストレイア軍の中枢を担う両者が、二対一でも敵わなかった相手。そして、目の前のブラジェイがその同格とされている。
戦場の風が、男の体から微かに漂っているように感じた。
(確かに、強そうね……)
そんな観察をしている間にも、ブラジェイはテーブルにもう一杯の酒を取り、喉を鳴らして飲み始める。だが、グラスを半分まで傾けたところで、ふと手を止めた。
「まぁ飲めよ、クロエ」
「あたしの金で飲む気でいるくせに、偉そうだね」
「そう言うなって。あいつがいねぇ時じゃねぇと、飲めねぇからな」
その言葉に、クロエの目元がほんのわずかに動いた。
どうやら、誰のことかすぐに察したようだ。
「あいつ……ティナのことかい? あんたの体がよほど心配なんだね」
「いちいちうっせぇんだ、あいつはよ」
掠れた声がそう零れた直後、クロエは胸元のポケットからタバコを取り出した。
「食事が来るまで、一本いいかい」
「かまわねぇけどよ。おめぇも、いい加減煙草はやめろよ」
「あんたがあたしの体の心配をしてくれるようになるとは、偉くなったもんだねぇ」
そう言って、クロエがタバコを唇に咥え、火をつけようとした、その瞬間だった。
彼女の視線が、まるで風を切るように、視線がアンナへ向けられた。
アンナは顔を動かすべきか迷ったが、ここで目をそらすのもかえって不自然だと判断し、自然な動作でそちらに顔を向ける。
クロエの長く波打つオレンジの髪が、微かに揺れた。
初めて見る顔──なのに、ただ一目でわかる。五聖政務官、唯一の女性。圧倒的な存在感を持つ女傑。
「隣で悪いね、お嬢ちゃん。一本だけ、煙草を吸ってもいいかい?」
アンナは落ち着いた笑みを浮かべながら、ナプキンでゆっくりと唇を拭う。
「できれば遠慮してほしいわ。私、煙草の匂いが苦手なの」
短い沈黙の後、クロエがまじまじとアンナの顔を覗き込んだ。その視線は、どこか好奇心に満ちていて、まるで目の奥の本質を覗こうとするかのようだった。
火を灯しかけた彼女の手が、止まる。
「……へぇ、言うじゃないか。そんなにきっぱり断られるのは初めてだよ」
それでも、アンナは微笑を崩さず、穏やかに言葉を返す。
「嫌なものを嫌と言うのは、そんなに不自然かしら?」
すると彼女はふっと笑って、煙草をテーブルの上にトンッとついた。
「いや、いいね。気に入ったよ。これからの世は、女性がちゃんと主張できなきゃならないからね」
クロエはどこか嬉しそうに言って、胸元のポケットに煙草を仕舞い直す。
「それじゃあ、今日は我慢しておくとしようか。あたしも、淑女だしね」
そのセリフに、ブラジェイがグラスを片手に呆れたように笑う。
「その割に、言葉遣いがなってねぇがな」
「うるさいよ、ブラジェイ」
クロエの一蹴に、彼は苦笑しながら肩をすくめる。ふと、彼女の視線が再びアンナへと向けられた。
「詫びと言ってはなんだけどね、甘いものは好きかい? ここの特性デザートは最高さ。奢らせておくれよ」
「あら、ありがとう。じゃあ遠慮なくいただくわ」
アンナ返答に、クロエはニッと笑みを浮かべ、グラスを手に再びエールへと口をつける。
(五聖政務官の中で、ただ一人の女性とは知っていたけれど……さすがに貫禄のある人ね。女傑と呼ばれているのもわかるわ)
その名に違わぬ風格。彼女の言葉ひとつ、所作ひとつが、空間を支配している。
そんな空気の中で、アンナは表面上は何食わぬ顔をして食事を続ける。その手は一切の乱れなく動き、だがその内側では、神経の糸を張り巡らせ、隣の会話へと耳を澄ましていた。




