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あなたを忘れる方法を、私は知らない  作者: 長岡更紗
光の剣と神の盾〜筆頭大将編 第一部 始動〜

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244/391

242.お前はそういうとこ、生真面目に守るよなぁ

 季節の風が変わり、軍にもまた編成の時期が巡ってきた。


 秋の乾いた空気が頬を撫で、空はどこまでも高く、青かった。


 今年も、人事に大きな波は起きなかった。

 アンナは引き続き筆頭大将として軍の中枢を担い、トラヴァスもまた、第二軍団の将としての座を守った。

 そして、カールは──


「くそっ、今年も隊長のままかよ……っ!!」


 トラヴァスの執務室で、壁に書類を投げつけんばかりの勢いで、カールは声を上げていた。

 血の気の多い表情を歪めて、悔しさを隠そうともしない。


「そう簡単に将にはなれん。今でも十分な出世なのだぞ」


 淡々と告げるトラヴァスの声は、相変わらず抑揚がない。

 その中に、わずかな慰めも、皮肉もなかった。ただ、事実として語っているだけだ。


「わかってっけどよー」


 ふてくされるように、カールは短く息を吐いた。

 口調は子どものようでも、瞳には焦燥と苛立ちの火がちらついていた。


 その姿に、トラヴァスは視線を向ける。

 冷えた湖面のような瞳が、静かに揺れた。


「まぁ、お前には早く将になってもらわなければ困るが、な」


 薄く響いたその言葉には、冗談めいた軽さはなく、どこか切実な響きがあった。

 二人きりの執務室。こんな会話が許されるのは、誰の耳もないこの場だけだ。


「……前に言ってたよな。俺が将になった時には、伝えられることがあるってよ」


 低く絞るようなカールの声。

 トラヴァスの返事は簡潔だった。


「ああ。早く駆け上がってこい」


 カールは一瞬だけ目を細め、苦々しい声を出す。


「くっそ、来年こそは将になんねぇとな……!」


 握りしめた拳が、思いと焦りを代弁していた。

 とはいえ、戦の影は今のところない。

 近年の情勢は落ち着いており、対フィデル国との緊張関係も表面上は沈静化していた。


 街の治安維持や魔物の討伐といった任務は続いているものの、軍としての緊張感はやや緩んでいると言っていい。


「ところで……ミカヴェルからの接触はないか?」


 ふいにトラヴァスが言った。

 その名が空気を裂く刃となって、静寂の中に落ちた。


「あったら言うっつの。今んとこ、なんもねぇよ。まったく動きもねぇし、なに考えてんだろうな、あいつは……」

「参謀軍師なのだ。碌なことは考えているまい」

「っは、まぁそうだな」


 ぼそりと呟いたトラヴァスの言葉に、カールは苦笑めいた息を吐いた。


 ヤウト村での一件以来、フィデル国の動きはぴたりと止まった。

 むしろ不気味なほどの沈黙だ。

 こちらから仕掛ける理由はないにしても、警戒だけは緩めるわけにはいかない。


「そういや、最近フリッツ様はどうなんだよ。十八になられたってことは、許可がありゃ結婚できる年だよな」


 場の空気を変えるように、カールが話題を振る。

 トラヴァスの眉間に、わずかなしわが刻まれた。


「ああ……フリッツ様は、早めの結婚を希望しておられるが……シウリス様の許可が下りなくてな」

「ん!? フリッツ様に、そんな相手がいるのかよ」


 身を乗り出したカールの声に、トラヴァスは静かに首を振った。


「いや、おられない。これからではあるが……目の色を変える貴族はいくらでもいるからな。相手は自由に選べる状況であると言ってもいい。シウリス様の目さえなければな」


 カールは眉を寄せた。

 頭の中で勢力図を描きながら、重苦しい現実に思いを巡らせる。


 シウリス──二十二歳。

 王に即位して数年、いまだ婚姻の話はない。

 王妃候補を何人も突き返しているうちに、貴族の一部は業を煮やし、王弟フリッツに希望を託すようになっていた。


 対してフリッツは結婚に前向きで、貴族との関係も柔軟だ。

 その一方で、未成年である彼には兄王の承諾が必要であり、たとえ成人しても、王族という立場では王の意向に逆らいにくいのが実情だ。


「シウリス様が許可を出さねぇのってよ。フリッツ様が結婚して子どもができれば、勢力図が変わるからってことだろ?」


 核心を突く問いに、トラヴァスは頷き答える。


「まぁな。それが嫌であれば、シウリス様自身も相手を見つければよい話なのだが……今のところ、そんなご様子はない」


 つまり、王が結婚しないままでいれば、フリッツの系統に王位が移る可能性が高まるということだ。

 王弟が婚姻し、子を成せば──次の時代の流れは決まっていく。


 実際、すでに一部の貴族たちがフリッツを中心に据えて、水面下で動き始めていた。


 だが──この均衡は、王のたった一言で崩れる。


「結婚する」と、その口から発せられたなら。

 王弟派の貴族たちは即座に路線を切り替えるだろう。

 自らの娘を王妃に、と願い出る者も後を絶たない。

 だが、その過剰な熱意がかえって、王の心を遠ざけるのもまた事実だった。


 ──王が結婚するのか、しないのか。

 それだけで、この国の未来は大きく変わる。


(どちらにせよ、シウリス様には幕を下ろしてもらうつもりだが)


 氷のようなトラヴァスの眼差しが、冷たく沈む。

 カールはその無機質な光を見て、わずかに眉を顰めた。


(トラヴァスのやつは、俺が将になった時、なにを伝えるつもりなんだ?)


 トラヴァスが第二王妃ヒルデと関係を持っていたこと。

 そのことで、トラヴァスがシウリスから徹底的に蔑まれていることも、カールは知っている。


 だが、それ以上のなにか(・・・)があるとしたら──


(よっぽどやべぇ話、だよな……)


 沈黙の中、カールの苦い思考は巡る。

 トラヴァスはそんな彼の表情を読み取ったかのように、平坦な声で言った。


「まぁ……この事実を知るのは、アリシア様亡き今、軍内では私とマックスしかいない。私の判断で伝えることもできるのだが……それでも、最重要機密だからな」

「お前はそういうとこ、生真面目に守るよなぁ……」


 呆れと感心が入り混じった声。

 トラヴァスはわずかに目を伏せ、淡く返す。


「性分だ」

「っへ。じゃあ俺は、早くその性分に負けないくらいの将になんねーとな」


 口元に僅かな笑みを浮かべ、背を向ける。

 なにも言わずに見送るトラヴァスの視線が、その背中に注がれていた。


「じゃ、俺は訓練に戻るぜ」


 手をひらひらと振って、カールは執務室を後にした。

 足取りはいつも通り、まっすぐなものだった。

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