241.それだけ、でしょうか……
午後の執務室には、春の陽だまりの光と静けさが、しんと満ちていた。
書類の紙が擦れる、乾いた音。羽ペンが紙を撫でる、優しい筆音。
時折、インク瓶にペン先を戻す小さな音が響いては、そのたびに空気がほんのりと揺れる。
ルティーは、アンナから少し離れた壁側の机に座りながら、書類の文言を一字ずつ丁寧に写していた。
その手元には、漆黒の艶を帯びた万年筆。繊細な装飾が軸にきらめき、滑らかな手触りが指先に心地よく馴染んでいる。
インクののりはなめらかで、すぐに乾くのも嬉しい。機能美と手触りの調和──まるで自分のために仕立てられたかのような筆だった。
「ルティー。見ないものを使っているわね」
ふいにアンナの声が静寂をやさしく破った。
朝から万年筆を使っていたのに、ようやく気づいた様子に、ルティーは小さく肩を揺らす。
「これ……トラヴァス様に、いただいたんです。誕生日のプレゼントにって」
「そう。よかったわね、ルティー」
アンナは口元に小さく笑みを浮かべ、それ以上はなにも言わず、再び羽ペンを手に戻した。
インク瓶にそっとペン先を浸し、瓶の縁で余分な滴を払う。その動作がまるで儀式のように静かで、気品があった。
「アンナ様は……ディップペンも万年筆も、お使いにならないんですね」
ふとした思いが、声になってこぼれる。
今では多くの騎士が便利なディップペンを使用しているというのに、アンナはあえて古風な羽ペンを選び続けているのだ。
その問いに、アンナは顔を上げ、小さく笑った。
「母さんがね、昔ながらの羽ペンを使っていたのよ。だから、憧れていたの」
「……アリシア様が」
その名を口にして、ルティーの胸に懐かしい記憶がよぎった。
この執務室で、羽ペンを滑らせていたアリシア。背筋を伸ばし、凛とした佇まいで執務に向き合っていたかつての筆頭大将の姿が、今のアンナと重なる。
「何度もインクをつけ直さなきゃいけないし、勢い余って垂らしちゃうこともあるし……でも、そういうのも含めて、なんだか味があるっていうか。好きなのよ、羽ペンが」
「アンナ様の文字……羽ペンで書いたと思えないほど、すごくお綺麗です」
「ありがとう。慣れてるだけよ」
ルティーは再び自分の万年筆に目を落とした。
技術的には羽ペンより遥かに高性能で、正確で、速く書ける。
けれど、アンナの文字にはそれとは違う、目には見えないあたたかさがあった。
なにかがこもっている──そう思わせるだけの力が、そこにあるような気がした。
そんなことを考えていた、その時。
「失礼します」
低く落ち着いた声と共に、扉が開く。
トラヴァスが静かに姿を現した。
彼は手に分厚い書類の束を抱え、無駄のない足取りでアンナの机へと向かう。その顔が、オンモードへと切り替わる。
「例の報告書、まとまりました。確認をお願いします」
「預かろう。すぐに目を通すから、少し待っていてくれ」
淡々と応じながら、アンナは書類を手に取り、その場で確認を始めた。
トラヴァスは黙って立ったまま、微動だにせずその様子を見守る。
ルティーがそちらを一瞬だけ見やると、トラヴァスがその気配に気づいて目を向けた。
彼の目線が自然と万年筆に向けられるのを感じて、ルティーは小さくそれを持ち上げる。そして、控えめにぺこりと頭を下げた。
トラヴァスはなにも言わなかったが、その瞳はほんのわずかにやわらかく細められていた。
「確認した。問題ない、これでいこう」
「わかりました」
書類から顔を上げて了承を出したアンナに、トラヴァスがすぐさま応じる。
「では、次の段階に進めていきましょうか」
「ここまでしてくれたなら上等だ。残りは私が引き受けよう」
「手伝いますよ」
トラヴァスの申し出に対し、アンナはあっさりと首を振った。
「いや、必要ない。私が自分でやろう」
そう言ってアンナは淡々と書類の束を脇に置き、新しい紙を取り出し始める。
「……そうですか」
ほんの少しだけ、声の奥に沈むトラヴァスの声。
「しかし、疲れている時は無理せず私を頼ってください」
トラヴァスの言葉に、ルティーはこっそりと顔を上げる。
それは筆頭大将を支える、第二軍団の将としての言葉に違いない。けれど、響きがあまりに優しくて、ルティーは聞き入ってしまっていた。
「これでもちゃんと頼っているつもりでいるんだが」
「まだまだ、足りませんよ」
アンナの苦笑が、ほんのりと空気を緩める。
「そうか。カールにも言われたんだ。気をつけよう」
「アンナ筆頭。私がいる意味を、もっと考えてもらいたい」
その主張された言葉に、アンナは一瞬、驚きの顔を見せた。
「……すまない」
「いいえ」
そのやりとりを、彼はいつもの無表情のまま交わしていた。
けれど、言葉に宿る熱が確かにあって──ルティーの胸が、音を立てて高鳴る。
「頼りにしているよ、トラヴァス。とりあえずは、下がってくれていい。また頼むことがあれば、こちらから連絡する」
「わかりました。では、失礼いたします」
そのままトラヴァスは静かに踵を返し、扉へと向かって歩き出す。
歩みに迷いはない。だが言葉にならなかった想いの余韻が、淡く背に漂っていた。
ルティーはそっと視線でその姿を追う。
無表情な横顔に、一瞬だけ見えた──氷のようなまなざしに、かすかな熱。
(トラヴァス、様……?)
鋼のように無機質な仮面の下、わずかに揺れた気配。
そんなトラヴァスの顔を見てしまったルティーの胸は、とくん、とくんと鼓動を大きくしていく。
(もしかして……)
思い至った仮説に、ルティーは軽く瞬きをする。
(……トラヴァス様は、アンナ様のことを……?)
確かではない。しかし、胸の奥に響いた感覚は──ただの勘とも違っていた。
トラヴァスが出ていくと、アンナは息を吐きながら苦笑いを浮かべる。
「まったく。私の周りは、心配性が多いな」
肩をすくめて笑うその様子に、ルティーは視線を送る。
「それだけ、でしょうか……」
「え?」
パチクリと目を瞬かせるアンナに、ルティーは慌てて手を振った。
「いえ、なんでもありません」
「そうか?」
アンナは首を傾げながらも、再び羽ペンを走らせ始める。
ルティーはふと、さっきの横顔を思い出しながら、万年筆をそっと握りしめた。
(カールさんは誰が見ても、そうよね。そして多分だけど……トラヴァス様も……?)
二人の想いに気づいてしまったルティーの胸が、静かにきゅうっと締めつけられる。
夕暮れに近づきつつある午後の光が、執務室の床に長い影を落とした。
穏やかな静寂の中、名もない感情だけが、そっと息をひそめていた。




