240.今日の仲間が、明日も仲間とは限らない
「また明日ね」
「気をつけて帰れよ!」
パーティの余韻を残したまま、アンナとカールの見送りに手を振って、ルティーはトラヴァスと並んで外へ出た。空気はすっかり夜の色に染まり、冷えた風が頬をなでていく。けれど、その胸の中には、まだ部屋のあたたかさが残っていた。
「ああ、本当に楽しかった……!」
聞かれたわけでもないのに、ルティーは胸に満ちた感情をそのまま言葉にした。
吐息に混ざった声には、まだ夢の中にいるような甘さが残っている。
「まさか、祝っていただけるとは思っていなかったから……アンナ様にはティーカップまでいただいて、カールさんにもらったこの蝶の髪飾りも素敵で……」
目元を綻ばせながら、髪飾りへとそっと指先を触れる。幸せが肌の奥まで染み込んで、夢心地のように歩くルティーの隣で、トラヴァスは静かに眉を下げた。
「私だけなにも用意せず、すまなかった」
「いえ! それは私も同じです。その、持って来るのを忘れてしまって……」
思わず視線をそらし、鞄を胸元に抱える。罪悪感に似たものが胸を締めつけて、ルティーの指先には自然と力がこもった。
トラヴァスはそんな仕草に目を留め、ふと足を緩めた。
「宿舎に置いてあるのならば、取ってこれるな?」
「……っ!」
不意にかけられた言葉に、ルティーは一瞬で青ざめる。あいまいな言い訳では逃げられないと悟り、動揺を悟られぬよう言葉を探す。
「ええっと、それはその……」
「即答できないということは、本当は忘れてなどいなかったのだろう?」
核心を突くような一言。
プレゼントを用意するという気は利かないのに、こういうことには鋭い。
ルティーは観念したように小さく頷いた。
「はい……本当は、持っていました……トラヴァス様への、プレゼント」
「やはりな。どうして出さなかったのかは、想像がつく。ルティーさえ良ければ、それを私にくれないか」
「でも……」
まだ迷いを滲ませるルティーに、トラヴァスは声を低くし、囁くように告げる。
「心配せずともいい。アンナに言うつもりはない」
「……!」
(本当にわかってるんだ……トラヴァス様って、本当にこういうことには気づける方なのね)
真摯なトラヴァスを見て、ルティーは頷く。
そしてバッグから、トラヴァス用のプレゼントを取り出した。
それは、拍子抜けするほどに軽いものだ。
「これ、です……」
「ありがとう、ルティー」
受け取ったトラヴァスは丁寧に紙を解いた。
中から現れたのは、一対の白いグローブだ。
「すみません……まさか、アンナ様と被るとは思わなくて……アンナ様にも、申し訳なくて……」
「私もアンナも、気にしたりなどしない。だが、ルティーが気になるのならば、わざわざ伝えたりはしないさ」
そう言いながら、トラヴァスは今着けていた手袋を外し、ルティーの贈ったものを指に通す。まるで、彼女の気持ちごと受け取るように。
「ふむ。付け心地がいいな。サイズもぴったりだ」
「……本当、ですか?」
「ああ。これも使わせてもらおう」
その一言に、ルティーの肩からふっと力が抜けた。安堵と共に、少しだけ視線を落とす。
「でも……配慮が足りませんでした」
「配慮?」
トラヴァスの問いに、ルティーは唇を結び、そっと思い出すように言葉を紡いだ。
「はい……だって、トラヴァス様がグローブを着け始めたのは、シウリス様に命令されて、仕方なくなのに……」
記憶が胸を締めつけるように蘇る。
グローブを身につけるその意味を、ルティーは知っている。
「なにも知らないアンナ様はともかく、事情を知る私が選ぶべきものではありませんでした……申し訳ありません、トラヴァス様……っ」
頭を深く下げるルティーの髪に、そっとグローブ越しの手が触れた。
優しいぬくもりが、心にまで届いていく。
「それこそ気にする必要はない。ルティーとアンナにもらったグローブのおかげで、あの記憶をいいものに上書きできたのだ。ありがとう、ルティー」
「トラヴァス様……」
見上げると、その瞳には確かな優しさが宿り、そっと頷いていた。
ルティーの胸の奥は、じんわりと温かくなる。
「トラヴァス様は……本当にお優しいです」
ぽつりとこぼれた一言に、トラヴァスの手が止まった。そして、そのままゆっくりと手を下ろす。
「……あまり私を信用しない方がいい。目的のためであれば、誰を傷つけようとも私は手段を選ばない」
氷のような瞳に浮かぶ、どこか痛みをはらんだ光。
ルティーの心が、静かに揺れた。
「でも……たとえ誰かを傷つけるようなことがあったとしても……トラヴァス様は、それを望んでやるような人じゃないと思います! きっと、必要だから選ぶだけで……」
「えらく信用されたものだ」
口元にわずかな嘲笑が浮かぶ。それでもルティーの瞳は揺るがず、真っ直ぐに彼を見つめていた。
「だって、トラヴァス様はそういうお方ですもの!」
その一言に、トラヴァスの表情が一瞬だけ強張る。
「本当に優しい心を持ってるって、私は……知っていますから」
「いつか、ルティーの大切な者を、この手で傷つけたとしてもか?」
トラヴァスの言葉も瞳も、冗談で言っているそれではなかった。
ルティーはトラヴァスの心がわからず、眉を下げる。
「それは……それでも……」
「情勢など、いつなんどきひっくり返るものかわからない。今日の仲間が、明日も仲間とは限らないのだ」
「……そんな」
喉の奥に熱がこみ上げ、ルティーの瞳がかすかに潤む。
それを見たトラヴァスが、ふっと息をついた。
「すまない。誕生日に言うような話ではなかったな」
「いえ……私はこれでも軍に籍を置く身です。覚悟が足りないと言われれば、その通りでした」
「いや。私はルティーほどの覚悟を持った者を、そう知らない。だからこそ、話してしまった」
ルティーはまっすぐトラヴァスを見据える。
トラヴァスは彼女を一人の人間として見ているからこそ、言葉を選ばなかったのだ。
「私は理想を掴み取るため、自分の正義を突き進む。それがルティーの正義と、同じではない時には……わかるな?」
その言葉は決して重圧ではなく、静かな問いかけだった。
けれど、心の奥底にまで届いてくるような、深い覚悟が滲んでいた。
「だから、信用してはならない、と?」
「自分の揺るぎない意志を持つことも必要だという話だ。己の目で見て、耳で聞き、自ら選び取れ。そうでなければ、いつか誰かの正義に飲み込まれてしまう」
淡々と語るその声には、真の優しさがあった。
導こうとするのではなく、歩ませようとする言葉。
「……わかりました。精進いたします」
凛と答えるその姿は、十二歳になったばかりとは思えぬほどの成熟さに満ちていた。
子どもを一足飛びに大人にさせてしまったようで、トラヴァスはほんの少しの罪悪感を胸に抱く。
「ルティー」
「はい」
「手を出しなさい」
「……手?」
首を傾げながら手を差し出したルティーの手の甲を、トラヴァスはそっと包む。そしてその手を優しくくるりと裏返した。
「使い古しで悪いが……物は良い。私が騎士になってからずっと使ってきたものだ」
トラヴァスはそう言いながら、胸ポケットから一本の万年筆を取り出し、ルティの手の上に置く。
しっとりとした光沢を帯びた黒檀の軸。すらりとしたフォルムの先に施された細やかな彫金が、持ち主の気品を物語っていた。
「万年筆……!」
万年筆とは、本来限られた階級の者だけが手にする特別な道具。
熟練の職人がひとつひとつ丁寧に作り上げるため、今でも高価で、簡単に手に入るものではない。
いくら誕生日であっても、そう軽々と贈られるような代物ではなかった。
それに何より──これは、トラヴァスが普段から使っている品だと、ルティーは知っていた。
「こんな高価なもの……いただけません! しかもトラヴァス様の愛用品ではありませんか!」
目を丸くして訴えるルティーに、トラヴァスはふと表情を和らげた。
眉がわずかに下がり、声に微かな温度が差す。
「ルティーなら、丁寧に使ってくれると分かっているからな。文字を書く機会も多いだろう。良いものを使ってほしい」
万年筆を載せたままの手を、トラヴァスは包むようにしてそっと握らせた。
拒む隙を与えず、それでいて優しく、彼女の意志を尊重する手つきだった。
「誕生日おめでとう、ルティー。たくさん学び、たくさん迷って、自分の道を見つけなさい」
手の中に確かな重みが宿る。
金属の冷たさよりも先に感じたのは、そこに込められた想いだった。
「……ありがとうございます……! 一生、大切にします!」
しっかりと声に乗せた感謝に、トラヴァスは静かに笑った。
彼にしては珍しい、どこか柔らかい笑みが浮かんでいた。
「帰ろう」
「はいっ」
そうして二人は並んで歩き出す。
街灯の明かりが影を重ね、夜の道をやわらかく照らしていた。




