239.こんな顔で笑う人だったかしら
「アンナ様、カールさん、本当にありがとうございました!」
弾む声と一緒にルティーが頭を下げた。まだ子どもである彼女にとって、午後七時の解散は十分に遅い。夕暮れもとっくに過ぎ、窓の外は深い藍色に染まっている。
カールは後片付けのために部屋へ残り、トラヴァスは玄関先でルティーと並んで靴を履いていた。場所も道順も覚えているからと、ルティーは一人での帰宅を申し出たが、大人たちは首を縦に振らなかった。
王都は貴族地区ゆえ治安は悪くないし、巡回中の騎士たちもいる。それでも、〝絶対になにも起きない〟という保証は、この世界には存在しない。
「じゃあトラヴァス、お願いね」
「わかっている。今日はありがとう、アンナ。食事も美味しかった」
「ふふ、ありがとう」
「おい、俺も作ったんだけど?」
「評価を催促するな、カール。器が知れる」
「っぐ!」
まるで痛いところを突かれたように声を詰まらせるカール。その様子が可笑しくて、ルティーは口元に手を当てて笑った。
「カールさんが作ったお料理も、とっても美味しかったです!」
「お、そっか!? やっぱ優しいよな、ルティーは! お前も見習えよ、トラヴァス!」
カールの得意げな言葉に、トラヴァスは小さく息をつきながら、ルティーに視線を向ける。
「ルティー、あんまりこいつを甘やかしてくれるな。調子に乗る」
「いいじゃねぇか、調子には乗るもんだぜ!」
カカカッいうカールの笑い声が玄関先に残る中、トラヴァスはそっと息を吐いて扉を開けた。涼やかな夜気が流れ込み、ルティーの髪が揺れる。
「では行こう、ルティー」
「はい。ではアンナ様、カールさん、失礼いたします」
彼女が深く頭を下げると、アンナとカールが穏やかな笑みで見送った。
「ええ、また明日ね」
「気をつけて帰れよ!」
最後にルティーはとびきりの笑顔を咲かせて、トラヴァスと共に夜道へ消えていく。その背を見送るアンナの足元に、顔を擦るようにしてイークスがやってきた。
「なぁに、イークス。二人がいた時にはそっけない態度取ってたくせに」
「こいつ、本当に人馴れしないやつだよな。ルティーは触りたそうだったのに、触れさせねぇしよ」
「ちょっと気難しいところがあるのよ、この子は。私だって、慣れてくれるまでに、相当時間が掛かったもの」
イークスはどこ吹く風といった様子で、無関心に尻尾を揺らしている。
「長期戦か。アンナと同じだな」
「え? 私、慣れるまでそんなに時間かかってた?」
小首を傾げるアンナに、カールは肩を揺らして笑った。
「さぁな。じゃ、まぁ片付けようぜ。残った料理、ちょっともらっていいか? 夜食にしてぇ」
「もちろんよ。明日の朝食べるには、重いしね」
「今日はこの家に泊まんのか?」
「ええ、久々にゆっくりするわ」
ゆるやかな空気の中で、二人は台所へ戻り、テーブルの上の器を手に取って片付け始めた。
「っつか、アンナに祝ってもらったの、何気に初めてじゃねぇか?」
カールは手を動かしながらも、どこか嬉しそうに笑う。
「……そうだったわね。プレゼントを渡すくらいはあったけど。だってあなたたち、一番忙しい時期に生まれてるんだもの」
「まぁな!」
カールは料理の残りをフードコンテナに詰めながら、しみじみと口にする。
「ま、ルティーがメインだからアンナもこうしてパーティしてくれたんだろうけどよ。嬉しかったぜ。ありがとうな!」
「あなたとトラヴァスを祝いたい気持ちがあったのも、本当よ。一緒に祝えてよかったって、心からそう思ってるの」
「……へへっ」
カールの照れ笑いを聞きながら、アンナは皿を洗い始めた。
料理を詰め終えたカールがやってきて、鍋を流しへと置く。
「カールはこれで拭いてくれる?」
「おう」
アンナが手渡した食器用の布巾を、カールは当然のように受け取ると、洗い終えた皿に手を伸ばす。二人で黙々と作業を進めるその空気は、不思議と居心地がよかった。
「朝から晩まで使っちゃって悪いわね」
水音の合間にこぼれたアンナの声は、どこか遠慮がちだ。
そんなアンナを諭すように、カールは声を掛ける。
「言ったろ、誰かに頼ることも必要だってよ。それが俺なら、嬉しいくらいだ」
昼間にも言っていた、彼の言葉。
しかし今、それがやけにアンナの胸に響いてた。
ほんの少し細められたカールの赤い瞳。優しく上げられた口角。
(カールって、こんな顔で笑う人だったかしら)
その横顔をじっと見つめていると、視線に気づいたカールがニッと笑った。
「お、どうした? 俺がイイ男だってことに、ようやく気づいたか?」
いつもの調子に戻ったカールを見て、アンナは少しほっとすると同時に軽く吹き出す。
「もう、バカね。すぐ調子に乗るんだから」
「ちぇ、反応なしかぁ」
カールは少し口をとがらせ、それでもどこか楽しそうに皿を拭き上げていく。
「……いい男だなんてことは、ずっと昔から知ってるわよ」
ふと落ちたその言葉に、カールの手がぴたりと止まる。意外だったのか、それもまっすぐ過ぎたのか。彼は黙ってアンナを見つめた。
そしてアンナもまた、カールの燃えるような目を見つめ返す。
「あなた、いつもそんなだけど……本当に誰にでも優しいもの。私も、グレイも、トラヴァスも……あなたの部下だって、なんなら上司だって、みんなあなたを慕っている。本当にすごい才能だわ」
柔らかくも確かな声で伝えられた言葉に、カールは少し驚きながら目を見開く。
「おお……めっちゃ褒めてくれんじゃねぇか。割と、効くな」
「効く?」
いつかの会話と同じ言葉に、アンナはやはり首を傾げながら笑った。
「ま、嬉しいってこった。そう言ってくれて、ありがとな!」
「私の方こそ、いつもありがとう。はい、これで最後よ」
「二人でやると、早ぇな」
後片付けを終えると、カールはフードコンテナをしっかり抱えて、玄関へと歩き出した。
「じゃあ、ありがとな。今日は疲れただろうし、ゆっくり寝ろよ!」
「ええ、カールもね」
「イークス、またな!」
カールはいつもの笑顔で、軽く手を振って出て行く。
その背が扉の向こうに消えたあと、アンナは足元のイークスをそっと撫でた。
「すごくいい誕生日パーティだったわ……楽しかった……」
祝うことのできる誰かがいて、自分の存在が誰かの中にある──それは、日常の中にひっそりと咲く幸せの花だ。アンナはその温もりを胸に、イークスをやさしく抱きしめる。
「イークス……あなたも二歳になったのよね。大きくなるの、本当に早いわ。きっとルティーも、あっという間ね」
愛おしさと、少しの寂しさと。そして、未来への希望。
アンナの瞳に浮かぶ微笑みは、どこまでもあたたかく優しかった。




