235.これが、前に進むってことなのかもしれないわね
カールとアンナが掃除を終えた頃には、太陽はすでに天頂を越えていた。
「ありがとう、カール。おかげで予定より早く終われたわ」
昼からも掃除をしなければいけないと思っていたアンナは、額の汗をぬぐいながら微笑む。するとカールは満足げに頷いた。
「ちょっと外行ってなんか食おうぜ。腹減っちまった」
「ふふ、そうね」
昼下がりの風が、心地よく肌を撫でていく。
ふたりは町の小さなパン屋へ足を運び、焼きたてのサンドイッチをそれぞれ選んだ。カールはベーコンと卵が溢れんばかりに挟まれたもの、アンナはトマトとチーズのさっぱりとしたものだ。紙袋越しに、温かな香りが鼻先をくすぐる。
見晴らしのいい公園のベンチに腰を下ろすと、ふんわりと緑の匂いが漂ってきた。春の風が頬をかすめ、木々の間から差し込む陽光が木漏れ日となって、ふたりを優しく包み込む。アンナの足元では、イークスがのんびりと伏せ、退屈そうに大きな欠伸をひとつした。
「……うまっ」
カールが口いっぱいに頬張って、唸るように言った。アンナはその無邪気な様子に、思わずくすっと笑みを漏らす。
「疲れたあとのご飯は、なんでも美味しいものよね」
「だな。アンナもちゃんと食えよ。動きっぱなしだったろ?」
「ええ、いただくわ」
噛むたびに、トマトの爽やかな酸味が舌に広がり、チーズのまろやかさと混ざり合う。小さな幸せが、ゆっくりと体の隅々に染み渡っていくようだった。
「こうして外でのんびり食べるの……あの時以来だわ」
「……そっか」
カールの返答は短かったが、その声色には、ふたりだけが共有している記憶が宿っていた。
グレイの死後、アンナは妊娠していると思い込んでいたことがある。
結局それは勘違いで、子どもがいないとわかった時、絶望すらしていた。
そんなアンナをカールは受け止め、こうして公園でキッシュを食べたのだ。
「私……少しは強くなれたかしら」
「群青の悪魔って言われるくれぇには、強くなってんだろ」
「ふふ、そうね」
サンドイッチを片手に、カールが気持ちよさそうに空を見上げる。柔らかい雲が風に流れ、光の粒が木々の隙間から地面に降り注いでいた。
「けどよ。完璧じゃなくていいんだからな。しんどいときゃ、誰かに頼ることも必要……ってな」
「カール……あの時と、同じようなこと言ってるわ」
「あ? そうだったか?」
──仲間がしんどい時には傍にいてぇって、フツーだろ。
そのときと変わらぬ声。変わらぬ眼差し。カールは飾らない言葉で、大事なことを何度でも口にする。
当時、カールの存在にどれだけ救われたかわからない。
吹き抜ける風に、草の匂いやパンの香りがほんのりと混じる。ベンチの背もたれに手を預けながら、アンナはカールに向けて静かに目を細めた。
カールは最後のひとかけらをもぐもぐと頬張りながら、視線を空の遠くに投げている。普段の快活さとは違い、その横顔はどこか落ち着いていて、頼もしくすら見えた。
「ねえ、カール」
「ん?」
「……いつも、ありがとう」
その言葉に、カールは咀嚼を終えてから、少しばかり困ったように笑った。
「なんもしてねぇって」
「そんなことないわ。朝から来てくれて、掃除を手伝ってくれて……こうして、何気ない時間を過ごすのって、案外難しいものよ」
「難しいか?」
「ええ。誰かと一緒にいて、気を遣わずにいられる時間って、そう多くはないから」
そう言って、アンナは空のサンドイッチの包みを丁寧に畳んだ。
カールはそんなアンナに、ニッと歯を見せる。
「俺はただ、好きでこうしてるだけだしな。だから、いつでも呼べよ。ま、呼ばれなくても行くけどな!」
「もう、カールったら」
アンナの笑顔が、風に揺れる陽光を受けてさらに柔らかくなる。
「でもありがとう……嬉しい」
その素直な言葉に、カールはやはりニカッと笑った。
「よし、じゃあそろそろ行こうぜ!」
カールが立ち上がると、ベンチの影が少し揺れた。木漏れ日がきらきらと反射して、彼の背に光を散らす。
「晩飯は買うのか? 作んのか?」
「買うつもりだったんだけど、掃除が早く終わったから、久々に料理をしようかしら。手伝ってくれる?」
「おう! 当然だろ!」
カールの快活な返事に、アンナもまた立ち上がる。イークスもタイミングを察したように伸びをして、すっと歩き出した。
「じゃあ、材料を買って行きましょう。ケーキだけは買っていくわ」
「苺のケーキにしようぜ! ルティーはなんか、苺って感じがすっからな!」
「本当ね。きっと喜ぶわ。カールのお祝いでもあるんだけど、苺でいいの?」
「俺のことはいいって。主役はルティーだろ? っつっても、俺も苺が好きなんだけどな。でっけぇやつにしようぜ」
苺の話をするカールの目は、まるで子どものように輝いていて。アンナは笑いをこらえるように唇を押さえ、そっと首を縦に振った。
***
買い物を終えて戻ると、アンナは迷いなくエプロンを手に取り、軽やかな手つきで腰に巻いた。
「カール、これを洗って皮を剥いてくれる?」
「任せろ!」
アンナの指示に、カールは軽口を叩きながらも器用に野菜の皮を剥いていく。包丁の音と水の音、湯気と香りが静かに空間を満たしていくたびに、キッチンが温かみを増していく。
「食器はこれにしましょう」
「あいよ」
アンナが丁寧に取り出したのは、淡い青に花模様があしらわれた器。普段より少しだけ特別な、食卓に小さな華を添えるものだ。
カールはそれを受け取りながら、炒め物や前菜のサラダ、オーブンで焼いたローストなど、出来上がっていく料理をきちんと並べていく。その姿はどこか手慣れていて、頼もしさすら感じられた。
ふと、アンナは動きを止め、静かにカールを見やった。
誰かと並んで、こんな風にキッチンに立ち、肩を並べて料理をする──。そんな当たり前の日常が、こんなにも穏やかで、心を満たすものだったのだと。
かつてグレイと共に過ごした時間。それとは違うけれど、今ここにあるぬくもりは、確かにアンナの心を優しく包み込んでいた。
(……これが、前に進むってことなのかもしれないわね)
ふいにカールが視線に気づき、振り返る。
「ん? どうした、アンナ」
「……いいえ、なんでもない。これで準備はいいわね、あとは来るのを待ちましょう」
「十分前か。そろそろトラヴァスが迎えに行ってっ頃かもな!」
アンナは手を止めて、小さく笑った。カールが整えたグラスの縁が、窓から差し込む光を受けて、きらきらと淡く光っていた。
もうすぐふたりが来る──そう思うだけで、胸の奥がふわりと弾んだ。




