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あなたを忘れる方法を、私は知らない  作者: 長岡更紗
光の剣と神の盾〜筆頭大将編 第一部 始動〜

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234.時間、間違え過ぎじゃない?

ブクマ67件、ありがとうございます!

 四月八日、当日。


 アンナはイークスを連れて、久しぶりに自宅へと戻ってきた。

 玄関の扉を開けると、微かに残るグレイの気配が空気に混じって漂っていた。

 鼻先をひくつかせたイークスが、小さく「くぅん」と鳴く。まるで彼の存在を感じ取ったかのように。


「イークスは自由にしてて。私はまず、掃除からね」


 アンナはそう言って、ゆるく息を吐きながら袖を捲った。

 リビングへと進み、両手で大きく窓を開け放つ。冷たい春の風が吹き込み、薄いカーテンをふわりと舞い上げた。

 ひとつ、またひとつと二階の窓も開けていく。

 風が通るたび、家全体が少しずつ目を覚ましていくような気がした。


 グレイが使っていた部屋。

 ディックが出入りしていた、小さな窓。

 視線を向けるだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

 けれど、アンナはそっとまぶたを伏せ、奥歯を軽く噛みしめた。その感情に飲まれないよう、黙って雑巾を手に取る。


「さて、みんなが来るまでに綺麗にして、パーティの準備もしないと」


 声に出すことで、揺れる気持ちに蓋をする。

 埃が薄く積もった棚に手を伸ばすと、懐かしい匂いが鼻をくすぐった。

 それはまるで、時間の名残が家のあちこちにそっと息を潜めているようだった。


 掃除を始めてしばらくすると、ノックの音が響いた。

 まだ午前中だ。パーティは夕方からなので、来客にしては早すぎる。

 首を傾げながら玄関へ向かうと、次の瞬間、ガチャリと扉の開く音がした。


「お、開いてた」

「カール!」


 不意に扉が開き、見慣れた赤毛の男が姿を現す。


「どうしたの? 時間、間違え過ぎじゃない?」

「っば、ちっげーよ! 部屋を掃除すんだろうと思って、手伝いにきたんだっつの!」


 ぶっきらぼうに言いながらも、靴を脱いで上がる姿を見て、アンナは思わず目をぱちくりとさせた。


「ありがたいけど……よく私が午前中から掃除するって、わかったわね?」

「まぁな」


 そう言って、カールはにやりと笑いながら、アンナの手から雑巾を奪い取った。


「床拭きゃいいのか?」

「それは家具用なの。床はゴミを落として掃き出してから、最後に拭くわ」

「わかった、とりあえず家具拭いてくぜ」

「助かるわ、お願い」


 アンナは少し笑みを浮かべると、再び雑巾を手に、目の前の家具へと向き直った。


 二人並んで、黙々と作業を進める。

 布を滑らせる音、風に揺れるカーテン、犬の足音……そんな小さな音が、空間に穏やかに溶け込んでいく。


 不意に、アンナの指が止まる。

 胸の奥が、ひときわ強く疼いた。


「軍学校にいた頃は、夏季休暇と冬季休暇のたびに、グレイと一緒に掃除したのよね……」


 ぽつりと落としたその声は、ほこりを払いながら、遠い記憶をなぞるようだった。

 掛け布団を風に当てながら、アンナはそっと窓辺に目を向ける。

 冬の寒さで手がかじかんだこと。暖炉に急いで火を入れたこと。

 そのひとつひとつが、色褪せない記憶として胸に残っていた。


 そんなアンナの横顔を視線だけで見つめていたカールは、手を止めず、静かに言葉を継いだ。


「バキア討伐で勲章もらった時よ。俺、初めてこの家に来たんだよな。そん時、アンナとグレイが当然のように掃除を分担しててよ」


 一拍置き、アンナに顔を向けると、口元に少しだけ苦笑を浮かべる。


「なんつーかもう、夫婦みてぇだったんだよな」

「……そんな風に見えてた?」


 雑巾を持つ手を止めたまま、アンナはゆっくりと振り返る。

 その目は、カールの言葉の続きを確かめようとするように、まっすぐだった。


「おう。グレイはすっかりこの家に馴染んでたしよ。二人でこの家に住んでんだ……ってな。今だから言えっけどよ。ちょっと羨ましかったんだよな……お前らの関係」

「……羨ましい?」


 アンナの指が雑巾をぎゅっと握りしめる。



「お前らにはよ。揺るぎない信頼っつか、絶対にお互いを裏切らねぇ自信があったっつーか。そーいうのが滲み出てたかんな。見てて敵わねぇって、いつも思ってたんだぜ」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に何かが押し寄せてきた。

 苦しくて、寂しくて、けれど、あたたかくて。


(私たちは……カールの目に、そんな風に映ってたのね……)


 知らなかった事実が、そっと胸に降り積もる。


「けどよ、別に嫌な気持ちになったとかじゃなく、逆だ。お前ら見てたらさ。どっか清々しい気持ちになってよ。多分、トラヴァスも同じだったんじゃねーかな」


 ぐらりと、感情の波が大きく揺れる。

 カールの言葉が、心にまっすぐ届いてくる。


「愛し愛されるってすげぇんだなって……俺はお前らを見て、知った気がすんだ」


 その瞬間、アンナの視界がにじんだ。

 涙をこらえるように、唇を噛みしめる。


「アンナ……」


 カールが名を呼ぶ。

 その声に、アンナはほんの少しだけ首を傾けて──小さく笑った。


「もう……泣かせないでよ……」

「……わり」


 謝るカールの声は、やけに静かだった。

 アンナはそっと顔を上げ、天井を仰ぐ。

 目の奥が熱い。けれど、それと引き換えに、心が少しだけ軽くなっているのを感じた。


「……けどよ、泣いていいんだからな」


 視線を戻すと、カールはまっすぐこちらを見ていた。

 その言葉の奥に、ただの慰めではない、なにかが込められているのがわかる。


「だからよ……今、アンナが一人で掃除してんのかと思ったら、居ても立っても居られなくなってよ」


 カールの表情は思いのほか真剣にアンナを見つめている。


「……それで、来てくれたの?」

「グレイの代わりにはなんねぇけどな。一人より二人の方が、掃除も捗んだろ?」


 その言い方がいかにもカールらしくて、アンナの目尻がわずかに下がった。

 彼の心の奥にある気遣いが、言葉以上に伝わってくる。

 アンナは頷き、そっと微笑んだ。


「……ええ」


 グレイの不在を痛みながら、それでも今こうして、別の誰かと向き合っている。

 それが不思議で、切なくて、でもどこか救われるような気がして。


「ありがとう、カール……」


 アンナの声は、いつもよりわずかに柔らかく、そして、少しだけ震えていた。

 その言葉に、カールはただ「おう」とだけ返し、再び雑巾を手に取る。


 いつもなら軽口の一つでも飛ばすところなのに、それすらできなかった。

 それほどまでに、アンナの瞳はまっすぐで、美しかった。


(今は、これでいい)


 カールはそう思っていた。

 アンナがまだグレイを失った悲しみの中にいることは、よくわかっている。

 無理に引き上げるつもりはない。ただ、そばにいることができればいい。


 けれどカールの心には、どうしても引っかかる想いがひとつだけあった。


(アンナは……俺らの前で、泣いたことがねぇんだよな……)


 軍学校で出会った頃から、それはずっと変わらない。

 誰かに何を言われても、涙を見せることはなかったアンナ。

 グレイが逝った時だけは、泣いていた。けれど、それ以降は──また涙を封じ込めたように見えた。


 アリシアが亡くなった時でさえ、カールはアンナの涙を見ていない。


(グレイの奴がいたら……アンナはちゃんと悲しい時や寂しい時には、泣けてたのかもしんねぇな……)


 そして今、カールは拳をぎゅっと握る。

 自分では、そうさせてやれないという──

 もどかしさと、無力感が、静かに胸の内に重くのしかかっていた。



 

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