234.時間、間違え過ぎじゃない?
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四月八日、当日。
アンナはイークスを連れて、久しぶりに自宅へと戻ってきた。
玄関の扉を開けると、微かに残るグレイの気配が空気に混じって漂っていた。
鼻先をひくつかせたイークスが、小さく「くぅん」と鳴く。まるで彼の存在を感じ取ったかのように。
「イークスは自由にしてて。私はまず、掃除からね」
アンナはそう言って、ゆるく息を吐きながら袖を捲った。
リビングへと進み、両手で大きく窓を開け放つ。冷たい春の風が吹き込み、薄いカーテンをふわりと舞い上げた。
ひとつ、またひとつと二階の窓も開けていく。
風が通るたび、家全体が少しずつ目を覚ましていくような気がした。
グレイが使っていた部屋。
ディックが出入りしていた、小さな窓。
視線を向けるだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
けれど、アンナはそっとまぶたを伏せ、奥歯を軽く噛みしめた。その感情に飲まれないよう、黙って雑巾を手に取る。
「さて、みんなが来るまでに綺麗にして、パーティの準備もしないと」
声に出すことで、揺れる気持ちに蓋をする。
埃が薄く積もった棚に手を伸ばすと、懐かしい匂いが鼻をくすぐった。
それはまるで、時間の名残が家のあちこちにそっと息を潜めているようだった。
掃除を始めてしばらくすると、ノックの音が響いた。
まだ午前中だ。パーティは夕方からなので、来客にしては早すぎる。
首を傾げながら玄関へ向かうと、次の瞬間、ガチャリと扉の開く音がした。
「お、開いてた」
「カール!」
不意に扉が開き、見慣れた赤毛の男が姿を現す。
「どうしたの? 時間、間違え過ぎじゃない?」
「っば、ちっげーよ! 部屋を掃除すんだろうと思って、手伝いにきたんだっつの!」
ぶっきらぼうに言いながらも、靴を脱いで上がる姿を見て、アンナは思わず目をぱちくりとさせた。
「ありがたいけど……よく私が午前中から掃除するって、わかったわね?」
「まぁな」
そう言って、カールはにやりと笑いながら、アンナの手から雑巾を奪い取った。
「床拭きゃいいのか?」
「それは家具用なの。床はゴミを落として掃き出してから、最後に拭くわ」
「わかった、とりあえず家具拭いてくぜ」
「助かるわ、お願い」
アンナは少し笑みを浮かべると、再び雑巾を手に、目の前の家具へと向き直った。
二人並んで、黙々と作業を進める。
布を滑らせる音、風に揺れるカーテン、犬の足音……そんな小さな音が、空間に穏やかに溶け込んでいく。
不意に、アンナの指が止まる。
胸の奥が、ひときわ強く疼いた。
「軍学校にいた頃は、夏季休暇と冬季休暇のたびに、グレイと一緒に掃除したのよね……」
ぽつりと落としたその声は、ほこりを払いながら、遠い記憶をなぞるようだった。
掛け布団を風に当てながら、アンナはそっと窓辺に目を向ける。
冬の寒さで手がかじかんだこと。暖炉に急いで火を入れたこと。
そのひとつひとつが、色褪せない記憶として胸に残っていた。
そんなアンナの横顔を視線だけで見つめていたカールは、手を止めず、静かに言葉を継いだ。
「バキア討伐で勲章もらった時よ。俺、初めてこの家に来たんだよな。そん時、アンナとグレイが当然のように掃除を分担しててよ」
一拍置き、アンナに顔を向けると、口元に少しだけ苦笑を浮かべる。
「なんつーかもう、夫婦みてぇだったんだよな」
「……そんな風に見えてた?」
雑巾を持つ手を止めたまま、アンナはゆっくりと振り返る。
その目は、カールの言葉の続きを確かめようとするように、まっすぐだった。
「おう。グレイはすっかりこの家に馴染んでたしよ。二人でこの家に住んでんだ……ってな。今だから言えっけどよ。ちょっと羨ましかったんだよな……お前らの関係」
「……羨ましい?」
アンナの指が雑巾をぎゅっと握りしめる。
「お前らにはよ。揺るぎない信頼っつか、絶対にお互いを裏切らねぇ自信があったっつーか。そーいうのが滲み出てたかんな。見てて敵わねぇって、いつも思ってたんだぜ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に何かが押し寄せてきた。
苦しくて、寂しくて、けれど、あたたかくて。
(私たちは……カールの目に、そんな風に映ってたのね……)
知らなかった事実が、そっと胸に降り積もる。
「けどよ、別に嫌な気持ちになったとかじゃなく、逆だ。お前ら見てたらさ。どっか清々しい気持ちになってよ。多分、トラヴァスも同じだったんじゃねーかな」
ぐらりと、感情の波が大きく揺れる。
カールの言葉が、心にまっすぐ届いてくる。
「愛し愛されるってすげぇんだなって……俺はお前らを見て、知った気がすんだ」
その瞬間、アンナの視界がにじんだ。
涙をこらえるように、唇を噛みしめる。
「アンナ……」
カールが名を呼ぶ。
その声に、アンナはほんの少しだけ首を傾けて──小さく笑った。
「もう……泣かせないでよ……」
「……わり」
謝るカールの声は、やけに静かだった。
アンナはそっと顔を上げ、天井を仰ぐ。
目の奥が熱い。けれど、それと引き換えに、心が少しだけ軽くなっているのを感じた。
「……けどよ、泣いていいんだからな」
視線を戻すと、カールはまっすぐこちらを見ていた。
その言葉の奥に、ただの慰めではない、なにかが込められているのがわかる。
「だからよ……今、アンナが一人で掃除してんのかと思ったら、居ても立っても居られなくなってよ」
カールの表情は思いのほか真剣にアンナを見つめている。
「……それで、来てくれたの?」
「グレイの代わりにはなんねぇけどな。一人より二人の方が、掃除も捗んだろ?」
その言い方がいかにもカールらしくて、アンナの目尻がわずかに下がった。
彼の心の奥にある気遣いが、言葉以上に伝わってくる。
アンナは頷き、そっと微笑んだ。
「……ええ」
グレイの不在を痛みながら、それでも今こうして、別の誰かと向き合っている。
それが不思議で、切なくて、でもどこか救われるような気がして。
「ありがとう、カール……」
アンナの声は、いつもよりわずかに柔らかく、そして、少しだけ震えていた。
その言葉に、カールはただ「おう」とだけ返し、再び雑巾を手に取る。
いつもなら軽口の一つでも飛ばすところなのに、それすらできなかった。
それほどまでに、アンナの瞳はまっすぐで、美しかった。
(今は、これでいい)
カールはそう思っていた。
アンナがまだグレイを失った悲しみの中にいることは、よくわかっている。
無理に引き上げるつもりはない。ただ、そばにいることができればいい。
けれどカールの心には、どうしても引っかかる想いがひとつだけあった。
(アンナは……俺らの前で、泣いたことがねぇんだよな……)
軍学校で出会った頃から、それはずっと変わらない。
誰かに何を言われても、涙を見せることはなかったアンナ。
グレイが逝った時だけは、泣いていた。けれど、それ以降は──また涙を封じ込めたように見えた。
アリシアが亡くなった時でさえ、カールはアンナの涙を見ていない。
(グレイの奴がいたら……アンナはちゃんと悲しい時や寂しい時には、泣けてたのかもしんねぇな……)
そして今、カールは拳をぎゅっと握る。
自分では、そうさせてやれないという──
もどかしさと、無力感が、静かに胸の内に重くのしかかっていた。




