231.せめて、受け取ってあげて
終業時刻を十五分ほど前に控えた頃、アンナの執務室に静かなノック音が響いた。
「どうぞ」
声を返すと、扉が開いて入ってきたのは──トラヴァスだった。
手には今日の軍務に関する報告書が一式、きっちりと綴じられている。
「日報を上げに来ました。今週分の訓練記録もまとめています」
「確認しよう」
アンナは机上を少し整え、書類を受け取る。
それを開いて目を通しながら、二人は簡潔な報告のやりとりを交わしていた。
ルティーはその間、自分の机で自分の仕事をこなしている。
そして──。
王宮の高塔から、終業を告げる鐘の音が鳴り響いた。
軽やかで、長く尾を引く音色が、一日の終わりを静かに知らせる。
「ルティー、ご苦労だったな。もう終わって構わないよ」
アンナは書類から顔を上げ、いつもと変わらぬ調子で声をかけた。
これからルティーは、大本命のチョコレートを渡しに行くのだろう。今すぐにでも出ていかねば、相手が先に帰ってしまうかもしれない。
……目の前のトラヴァスでなければ、だが。
(ルティーが出ていけば、トラヴァスが相手じゃないってことだけど……)
チラリと見れば、ルティーは鞄から、彼女の顔ほどもありそうな大きなチョコレートの箱を取り出していた。きっちりとリボンで結ばれた、丁寧な包装。
だが、そのまま持ったきり、じっと動かずにアンナたちのやりとりを見つめている。
そう、まるで──トラヴァスの報告が終わるのを、待つかのように。
(ま、まさか……やっぱり、トラヴァスなの? その大本命チョコを、トラヴァスに!?)
胸の奥で心臓が跳ねる。アンナは咄嗟に動揺を飲み込み、報告書に視線を戻す。
だが、文字はすでにただの線の羅列にしか見えず、頭の中にはまったく入ってこなかった。
(集中しなさい、アンナ! でもこれが終わったら、ルティーがトラヴァスに……)
その先を想像してしまい、目の前で泣き出すルティーの姿が脳裏をよぎる。
胸が締めつけられるように痛み、アンナの顔は知らぬ間に青ざめていた。
そんなアンナの変化に気づいたトラヴァスが、わずかに目線を動かす。
向けた先は、ルティーだった。
「ルティー」
「はい、トラヴァス様」
「そのチョコレートを先に渡しなさい。気になって、集中できないようだ」
「っ……!」
ルティーがびくりと肩を震わせ、アンナも同時に小さく息を呑む。
(ちょっと、トラヴァス! そんなあっさり言わないでよ……!)
だが、ルティーはもう腹を括っていた。
両手でしっかりとチョコレートの箱を抱え直すと、まっすぐに、迷いのない足取りで前へと進み出た。
こちらに向かってくるルティーを見て、アンナの手はかすかに震える。
(トラヴァスは……ルティーを振るわよね……でもせめて、受け取ってあげて……!)
心の中でそう願っていると、ルティーのチョコレートはまっすぐに差し出された。
「あの……。う、受け取っていただけますか!?」
ドクンッ、とアンナの心臓が鳴る。
トラヴァスは、いつも通りの無表情だ。
何故なら──
「……え。わ、私?」
アンナの目の前には、大きな箱。
チョコレートの行き先は、トラヴァスではなくアンナであった。
一瞬、時間が止まったかのような静寂が落ちる。
頬をほんのりと染めながらも、ルティーは真剣な眼差しで口を開いた。
「聖スカーレットデイに、どうしてもアンナ様に渡したくて……!」
揺るがぬ決意の宿ったその瞳に、気圧されるような思いが胸を打つ。
しかし次の瞬間、ルティーはしゅんと肩を落とした。
「やっぱり……おかしいでしょうか……女性にチョコレートを渡すのは……」
そんな落ち込む様子に、アンナは慌てて声を返す。
「いえ、それは自由だけれど……大本命って言ってなかった?」
「はい、大本命です! アンナ様は、誰より素敵なんですもの……!」
真っ直ぐに思いを告げるその声に、アンナは思わず目を瞬きながらルティーを見つめ返す。
「私、てっきりルティーはトラヴァスに渡すものだと」
「え、トラヴァス様? いいえ、考えもしていませんでした」
「ルティーが私にチョコを渡すわけがないでしょう」
二人は『なにを言っているのか』と言わんばかりに不思議そうな顔をしていて、アンナはどっと脱力してしまった。
「私は予想だにしていなかったわ……」
「じゃあ……このチョコは……」
がっくりと箱を下げかけたルティーを見て、アンナは慌てて手を伸ばす。
「いえ、もちろんいただくわよ。ありがとう、ルティー。嬉しいわ」
「ほ、ほんとですか!?」
花が咲くように、ぱぁっとルティーの顔が明るくなる。
その笑顔に、アンナの頬も自然と緩んだ。
薄くも大きなその箱を手にすると、ルティーは嬉しそうに頬を染めた。
「よかったな、ルティー」
隣でトラヴァスが静かに告げると、ルティーは「はいっ」と弾む声で微笑む。
「それでは、私はこれで失礼いたします」
「ええ、気をつけて帰るのよ」
ルティーは満面の笑みを浮かべたまま、喜びを隠そうともしない様子で部屋を出ていった。
その背中からは、渡せたことへの安堵と嬉しさで溢れている。
だがパタンと扉が閉まった瞬間、アンナはギロリとトラヴァスを睨みつけた。
「トラヴァス……ルティーが私に渡すつもりだと、わかってたのね!?」
「わからなかったのは、筆頭くらいのものですよ。なぜ私に渡すと勘違いしたのか……」
そこまで言って、トラヴァスは珍しく、くっくと喉を鳴らして笑った。
アンナは深くため息をつき、肩を竦める。
「そうよね……ちゃんと考えれば、トラヴァスのはずがなかったわ。でも同性だし、私にくれるとは思ってもなくて」
「ルティーはアンナしか見ていませんよ。その献身は、見ていればわかる。大事にするといい」
「……ええ、わかってる」
アンナが頷いたのを見て、トラヴァスは彼女が出て行った扉の方に目を流した。
そして、同時に思う。
(だからこそ、危ういのだがな……)
ルティーがアンナに注ぐ愛情は、度を越している──とトラヴァスは思っている。
その意味を考え、トラヴァスはほんの少しだけ、顔を歪める。そして心の中でだけ、深く息を吐くのだった。




