229.……で、誰なの?
二人は早々に聖スカーレットデイの通達書が作りあげた。
本来の仕事に戻り、トラヴァスと二人で話し合っていると、ルティーが医療隊から戻ってくる。
「遅くなって申し訳ありません。ただいま医療隊より戻りました」
整った立ち姿とともに放たれた丁寧な声に、アンナは自然と笑みを浮かべた。
「おかえり、ルティー。ちょっとこれを見てもらえる?」
勤務時間中だというのに、オフモードのアンナの言葉遣いにルティーは一瞬きょとんとする。
差し出された紙を丁寧に両手で受け取ったルティーは、書かれた内容に目を通した瞬間、瞳が見開かれた。
「これって、聖スカーレットデイの……!」
はっと顔を上げたその様子を見て、アンナとトラヴァスは心の中で頷いた。やはり、このことだったのだと。
「持ってきても、渡してもよろしいんですか!?」
やや食い気味に尋ねてくるルティーに、アンナは頷いて答える。
「ええ。ただしそこに書いてある通り、渡すのは就業前、昼休み、就業後に限るけれど」
ルティーは紙を胸元に抱きしめるようにして、小さく息を呑んだ。
頬には驚きと、ほのかな紅が差す。
「ありがとうございます……聞きたかったことって、これだったんです」
「ちょうど決めなきゃいけない時期に入っていたのよ」
アンナがさらりと告げると、ルティーは目を輝かせる。
「なんでもお見通しなんて、アンナ様は魔法使いみたいです!」
「いえ、これは──」
ルティーの無垢な称賛に、アンナが答えかけたそのとき。
横にいたトラヴァスが、〝黙っておけ〟というように人差し指を唇に当てていた。
アンナはそれを見て、トラヴァスが提案したのだという言葉を飲み込む。
首をかしげるルティーに、アンナはさりげなく話題を変えた。
「──あげたい人が、いるのね」
問いかけに、ルティーははにかみながら頷いた。
「はい……いつもお世話になっていて……どうしてもあげたくって」
「ふふ。そう」
「でも──受け取ってくれるでしょうか。私が渡すなんて、おかしく思われるだろうし」
「どうして? 誰もおかしくなんて思わないわよ」
「実は……手作りにも挑戦したくて」
「なおさら素敵だわ。心がこもってて、いいんじゃないかしら」
アンナがすべてを肯定すると、ルティーの顔はぱぁっと花が咲いたように明るくなる。
「喜んでもらえますか?」
「ええ、きっと。少なくとも、私はそんなに心のこもったチョコレートを貰えたら、嬉しいわ」
胸に手を当て、ほっと息をつくルティーに、トラヴァスが静かに言葉を添えた。
「心配する必要はない。必ず受け取ってもらえる。そういう相手だ」
その確信めいた口調に、ルティーは顔をさらに赤らめて、嬉しそうに頷いた。
「あら、トラヴァス。ルティーが誰に渡そうとしてるのか、もうわかってるの?」
「まぁ……予想はつく」
トラヴァスの自信に、アンナは少しむっと言葉を詰まらせる。自分の付き人のことなのに、まったく心当たりがないことが少し悔しい。
けれど、トラヴァスがそう言うのなら──きっと、心配はいらないのだろう。
思考を切り替えるように、アンナは小さく息を吐いて笑った。
「なんにせよ、トラヴァスが大丈夫と言うなら大丈夫だわ。よかったわね、ルティー」
「はい。私……聖スカーレットデイ、がんばります……!」
その決意に、アンナもトラヴァスも、自然と微笑みを交わした。
「あ、これ、掲示板にもう貼ってきてもよろしいのですか?」
「ええ、お願いするわ」
「はい、すぐに行って参ります!」
通達書をしっかりと抱きしめ、ルティーは足取りも軽く部屋を後にした。
扉が閉まる音とともに、執務室に静寂が戻る。
アンナはしばらくその扉を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……で、誰なの?」
その声には、明らかな好奇心と、少しの悔しさが滲んでいた。
トラヴァスは書類に目を落としたまま、あっさりと返す。
「さあ、誰だろうな」
「トラヴァス」
「言いませんよ」
にべもない返答に、アンナは唇を尖らせる。
その様子を見て、トラヴァスは小さく笑った。
「わかってるんでしょ? ずるいわ」
「気づく者は気づくものです。筆頭が少々鈍いだけかと」
「ぐっ……」
反論できず、アンナは悔しそうに口を引き結んだ。
そのやりとりのあと、トラヴァスはちらりと視線を上げた。
その顔に浮かぶのは、からかいではなく、どこか楽しげな気配だ。
「私に聞かずとも、当日になればわかることです」
「もう。それまでモヤモヤしなきゃいけないのね……」
「……まあ、楽しみにしていればいい」
それは優しさのこもった言葉だったが、アンナはなんだか負けた気がして、ふくれっ面のまま視線を逸らす。
「……私の付き人よ? せめてヒントくらいあっても……変な男じゃないのよね?」
「変な男、では、断じてないですね。それだけは言えます」
力強く言い切られ、アンナはようやく少し安心したように息をついた。だが、すぐに疑念が浮かぶ。
「騎士かしら……それとも王宮の使用人? 医療隊の誰かかもしれないわ。まさか、ゾルダン……」
次々と可能性を挙げながら、アンナの表情に不安が滲みはじめる。
「大丈夫かしら。あの子、まだ十一歳なのよ。もし遊ばれでもしたら……!」
「落ち着け、アンナ」
言葉と同時に、トラヴァスがそっとアンナの手首を取った。
白いグローブ越しの感触に、アンナは一瞬目を見開き、彼を見つめる。
「さすがの筆頭大将も、ルティーに関しては冷静でいられないと見える」
「……ほんとだわ。私、かわいいのよ、あの子が」
「そのようだな」
低く、穏やかに返された言葉に、アンナの胸の奥がわずかに揺れる。
肯定するだけの簡潔な返答なのに、そこにはきちんと情があった。
「……あなたも、でしょ?」
そう問うと、トラヴァスは一瞬だけ視線をそらした。
それから、手を離すことなく静かに言葉を返す。
「どうだろうな。ただ……危うさは、感じている」
「危うさ……」
「それは、アンナも同じだがな」
その言葉に、アンナはそっと自分の手首へ視線を落とした。
グローブ越しの手は、体温を遮っているはずなのに、なぜか温かい。
「トラヴァス──手を、離して」
ようやくそう言ったが、彼の手はすぐには離れなかった。
張りつめたような沈黙が、ふたりの間に横たわる。
「……直接触れることなど、ないのだろうな」
「……え?」
トラヴァスがぽつりと呟いた言葉に、アンナは首を捻らせる。
そんな彼女をトラヴァスはしばらく見つめた後、ゆっくりと手を放した。
「では、私はそろそろ失礼します。筆頭」
「ええ……」
扉が静かに閉まり、再び訪れた静寂の中、アンナはそっと自分の手首をさすった。
「……相変わらず、トラヴァスはよくわからないわね」
その呟きに、返す声はなかった。
「そういえば……どうしてグローブをするようになったのかしら」
執務室には、ただ淡く、時間の流れだけが残されていた。




