228.私はまだなにも言っていない
年が明けた。
筆頭大将となって、初めて迎える新年である。
新年最初の訓示も、先ほど無事に終えた。騎士たちの士気を高めるための、大切な言葉だ。
(母さんはこの訓示が上手かったわよね……)
アリシアが壇上で言葉を紡いだときの、あの場の空気はいまも忘れられない。
まるで全員の心を掴んで離さない、そんな力があった。
グレイが生きていれば、おそらく今ごろ彼がその場に立ち、指揮を執っていたに違いない。
そう思うたびに、胸の奥がじわりと痛んだ。寂しさとも悔しさともつかない感情が、静かに心の底へ沈んでいく。
(グレイの言葉も聞いてみたかったわ……私は、上手くできたかしら)
執務室で一人、机の上に置かれた写真立てを見つめる。
そこに収められているのは、二十歳の頃のグレイだ。少しぎこちない笑みを浮かべていて、彼らしくもあり、どこか不器用な優しさを感じさせた。
そんな懐かしい写真に視線を落としていると、付き人が目の前にやってきた。
「アンナ様、本当に目が醒めるような素晴らしい訓示でした」
ルティーが満面の笑みをたたえ、目を輝かせながらこちらを見つめている。
「……本当にそう思うか?」
「もちろんです! 私、アンナ様に嘘など申しません!」
きっぱりと断言するその瞳に、思わず苦笑が漏れる。
まっすぐで、濁りのない眼差し。
それは、なによりの信頼と好意の証だった。
「ありがとう。ルティーにそう言ってもらえると、自信が持てるな」
胸の内に張りつめていたものが、すっと和らいでいく。
「ちゃんと役に立てるように頑張ろうって思えましたもの」
「いつも役に立ってくれているよ、ルティーは」
アンナが穏やかに目を細めると、ルティーは頬を染め、照れくさそうに小さく笑った。
その笑みは、どこかくすぐったく、あたたかい。
しかし──
その後、業務に戻ったルティーは、どこか落ち着きがなかった。
ファイルを閉じながらちらりとこちらを窺い、またすぐに視線を逸らす。
言いたいことがあるのに、どう切り出せばいいのか迷っているような様子だ。
「どうした、ルティー。なにかあるのか?」
声をかけると、彼女は少し肩をすくめ、遠慮がちに言葉を紡ぐ。
「あの、来月のことなのですが……少し、確認したいことがありまして……」
「来月? 特に大きな軍事予定はなかったと思うが……なんだ?」
「そうではなく……実は、その……」
言い淀む彼女の様子に、アンナが続きを促そうとしたその瞬間──
執務室の扉がノックされ、落ち着いた声が響いてくる。
「第二軍団、将トラヴァスです」
その名を耳にし、アンナは一度ルティーへと視線を戻す。
「すまない、話はあとだ」
「はい、もちろんです。開けますね」
ルティーが扉を開け、深々と頭を下げる。
その脇を通って現れたのは、分厚い資料の束を抱えたトラヴァスだった。
「失礼します、筆頭。今年度の軍備計画書、各部隊分をまとめましたのでご確認ください」
書類を胸に抱え、無駄のない足取りで机に向かう。姿勢は凛としていて、表情はいつものように、ない。
「いつもながら、仕事が早いな」
「職務を果たしたまでです」
アンナは資料の量を目で確認しながら、視線を上げた。
「各軍の指揮官にも直接確認を?」
「はい。全隊、問題なく動いております。三軍は昨年の雪害で補給経路に遅れが出た分、今期は早めに対策を講じています」
「そうか。ルティー、昨年の記録を出しておいてくれ」
「はいっ!」
少し慌てながらも、ルティーは素早く記録帳を取り出し、該当箇所を開いて差し出す。
ただ、その動作にはどこか不自然な硬さがあった。
アンナはその様子に、改めて引っかかりを覚える。
(……やっぱり、なにかあるのかしら)
だが今は、目の前の報告に集中すべきだと、自らに言い聞かせた。
「トラヴァス、このあと少し時間はあるか?」
「はい、筆頭のご予定に差し支えなければ」
「では、資料の要点を手短に聞かせてくれ。それから、来月の訓練予定についても確認しておきたい」
「承知しました」
報告は、いつものように明快だった。要点を逃さず、無駄のない口調で次々と情報が整理されていく。
その間、ルティーも黙々と補助作業をこなしていたが、時折アンナの横顔をそっと窺っていた。
そして時計を見上げると、ルティーはそっと口を開いた。
「お話の途中で恐縮ですが、そろそろ医療隊の方へ向かう時間となりましたので、少しの間、失礼いたします」
静かにそう告げたルティーに、アンナは微笑を返す。
「ああ、行っておいで。さっきの話は、後で聞こう」
「いえ……大したことではありませんので、先ほどの件はお忘れくださいませ。それでは」
そう言い残して扉を閉めると、室内は一気に静けさを取り戻した。
けれど、ルティーの言葉が胸に残り、アンナは喉の奥に小さな違和感を覚える。
わずかに表情を曇らせたその時、正面から声がかかった。
「筆頭、先ほどの件というのは?」
トラヴァスに問われて、アンナは視線を戻す。
「いや、来月のことで話があると言われたんだが……なにやら言いにくいことのようでな」
「……お断りします」
「トラヴァス。私はまだなにも言っていない」
先回りが過ぎるトラヴァスに、アンナは苦笑した。
「どうせ私に、探りを入れろという話でしょう」
息を吐くトラヴァスを見て、アンナのオンモードが解ける。
「さすがトラヴァス。察しがいいわね」
砕けた口調にトラヴァスもまた、友人として話しかけた。
「ルティーには困ったことがあれば頼れと言っているのでな。手伝わなくもないが……」
「あら、優しいのね。ルティーはあなたに気を許しているようだし、きっと教えてくれるわ」
「……彼女が話す気になるならな。しかし来月というのであれば、心当たりがなくもない」」
その低い声音に、アンナはパチリを目を見開く。
「あら、なんの話かわかるの?」
「あの年頃の乙女が考えそうなことだ」
「……なにかしら」
「思い当たらないのも仕方あるまい。俺たちの時代には、そんな行事などなかったからな」
「私たちの時代には……? あ!」
ヒントをつなぎ合わせるようにして、アンナはようやく一つの答えに辿り着く。
「もしかして、聖スカーレットデイ?」
「それ以外にないだろう」
頷くトラヴァスの表情には、どこか諦めに近いものがあった。
異国から伝わったこの習慣は、今やすっかり王都でも定着している。
『想いを寄せる相手にチョコレートを贈る日』──と変化したその風習は、特に若い世代を中心に人気を集めていた。
「スカーレットデイのことで、私に相談をしたかったってこと?」
「おそらくな」
「……ルティー、好きな人がいるのかしら。やだ、かわいいわ」
つい声が弾み、頬が緩む。
だがすぐに、はっとして表情を引き締めた。
母アリシアのようにニマァッと笑ってはいなかっただろうかと、我に返って少しだけ顔が熱くなる。
「……相手が鈍感では、ルティーも大変だろうな」
トラヴァスのぼそりとした呟きに、アンナは首をかしげるばかりだった。
「それで、ルティーは恋の相談を私にしたいってことよね?」
アンナの言葉に、トラヴァスは少し眉を動かす。
「どちらかというと、軍規の確認ではないかと思う。アリシア様が筆頭大将の頃からスカーレットデイはあったが、ここ数年で特に広がった。古参の騎士の中には、風紀の乱れを案じている者もいる」
その指摘はもっともだ。
アンナは静かに頷いた。
「確かに……若い騎士も増えたし、男女の距離も昔に比べてぐっと近くなったわね」
「彼女なりに、規律と私情の線引きを考えているのだろう。なにも考えずにチョコを配る連中に、ルティーの爪の垢を煎じて飲ませたいぐらいだ」
淡々としたトラヴァスの言葉に、アンナはそっと目を細めた。
「気遣い屋なのよ、ルティーは……」
想いの形よりも、それがもたらす影響を先に考えてしまう性格。
だからこそ、あんなにも言い出しづらそうにしていたのだ。
そのすべてを汲んだうえでトラヴァスは一歩、踏み込む。
「だが、ルティーに許可を与えれば、前例として扱われる。今後に備えて、明確な規則を設けておくべきだ」
そのまっすぐな提案に、アンナは少しだけ黙した。
目を伏せて、熟慮するように指先を組み合わせる。
そして、穏やかに口を開いた。
「でも、全面禁止なんてできないわ。それこそ反発が出るに決まっているもの。持ってくるのも、渡すのも自由。ただし、始業前・昼休み・終業後のみ。これだけで十分よ」
それは筆頭としての責任と、ひとりの人間としての優しさが両立した決断だった。
「……今と大差ないが?」
「それでいいのよ。ただ明文化するだけ。ルティーのような、心配性さんたちのためにね?」
「ふ。相変わらず、甘い」
けれど、その声音には非難の色はなく、むしろどこか親しみすら滲んでいた。
「今日中に草案をまとめて伝達するわ」
「私が請け負おうか」
「いいのよ。ルティーがどういう反応をするか、見て確かめたいの」
ルティーを大切なものとして位置づけているアンナは、椅子の背にもたれかけ、視線をやわらかく下ろした。
「では……先にまとめてしまうか。ルティーがいつ戻ってきてもいいように」
書類を脇へ寄せ、トラヴァスは当然のように手を動かし始めた。
その仕草は自然で、誰に指示されたわけでもないのに、もう動いている。
「あなたも甘いわね、トラヴァス」
そう告げるアンナの声には、ほんのわずかに笑いが含まれていた。
「気になることは先に片付けておく性分なだけだ」
トラヴァスの言葉に、アンナはふふっと笑って。
二人は静かに、草案の作成に取りかかったのだった。




