227.雪が灯っても
アンナは王宮に与えられている自室で騎士服を脱ぐと、私服に身を包んだ。
──外は、まだ雪が降っていない。
窓の外に目をやれば、厚く垂れ込めた雲が、静かに空に貼りついている。
音ひとつ立てず、ただどこか冷たく、降る気配だけを孕んでいた。
「……ルティー、無事に帰れたかしら」
ぽつりとこぼした独り言には、姉のような温もりと、主としての責任が同居している。
「トラヴァスがついてるんだから、大丈夫よね」
自分に言い聞かせるように微笑みながら、コートを手に取る。
「さて、私は早くイークスを迎えにいかないと」
その言葉とともに部屋を出て、数歩進んだところでアンナは足を止めた。
廊下の奥──曲がり角の向こうから、誰かがこちらへ歩いてくる気配。
一定の間隔で刻まれる、重たく整った足音。
威厳と自制を帯びた、その歩調に、聞き覚えはある。
──この時間に、この廊下を通る者など限られている。
(シウリス様だわ)
アンナは、無意識に背筋を正し、廊下の端に身を引いた。
張り詰めた空気のなか、案の定、角から現れたのは、この国の王だった。
紺鉄の礼装に、深紅の外套。
まるで冬空を貫くような冷ややかな色合いのなかに、炎のような赤が一筋、揺れている。
シウリスは普段と変わらぬ堂々たる歩みで近づいてきたが──アンナの姿を見た瞬間、ほんのわずかに、その歩を緩めた。
「……騎士服を脱いでいるとは、珍しいな」
低く、響くような声。どこか含みのある響きが、耳に残る。
「はい。今日はアシニアースですから、家に帰ろうと思いまして」
そう答えるアンナに、彼はわずかに目を細めた。
「帰ったところで、一人であろう」
ふ、と口の端を上げた彼の笑みに、アンナは少しだけ胸を締めつけられる。
「グレイと一緒に飼い始めた犬がいます。あの子は、私の家族ですから」
「……ふん。一人でないのならば、それでいい」
シウリスは短く鼻を鳴らすと、そのまま踵を返した。
(もしかしてシウリス様……私が一人でアシニアースを過ごすことを、気にかけて……?)
そんなはずはないと心の奥で否定しながらも、アンナは無意識にその後ろ姿に声をかける。
「シウリス様! ありがとうございます!」
ぴたりと、シウリスの足が止まる。
だが彼は振り返らないまま、低く言った。
「……俺はなにもしておらん。礼など、いらぬ」
「けれど……私は知っています。毎年アシニアースを一人で過ごす私に、シウリス様がお声を掛けてくださったこと……」
〝アリシアが帰って来るまで、僕がアンナのそばにいてあげる〟
そう言った、幼き日のシウリスの言葉。
王族である彼が、アンナの家に行く許可など下りるはずもなく、その約束が叶ったことはない。
だがその想いだけで、どれほど救われたか。
「……昔の話だ」
短く言い捨てるようにシウリスが答える。
「それでも、私はあの時──」
「忘れろ。……俺はもう、あの頃の俺ではない」
それだけを告げて、彼は歩き去っていった。
その背には、二度と振り返らない決意のような硬さがある。
(ならば……どうしてわざわざ、ここに来てくださったのですか──?)
アンナの心は翻弄される。
恐ろしいほどに冷酷かと思えば、時折、昔の優しさが垣間見えることに。
(シウリス様は……お一人で過ごされるのかしら……)
アシニアースは、家族で過ごすものとされている。そうでなければ幸せになれないという、ジンクスまであるほどの。
王族で残るのは、シウリスとフリッツのみ。
だが彼がラウ派のフリッツと食卓を囲むことは、まずない。
(いつか……シウリス様にも、心から笑える家族ができますように)
祈るような思いでそう願いながら、アンナはふと胸に疼きを感じた。
その棘のような痛みの正体には気づかず、アンナは裏山へと向かうのだった。
イークスを迎えに行った帰りには、アシニアースの食事を買い求めた。
誰に見せるでもない、けれど、きちんとした祝いの食卓を──グレイのために。
自宅へ戻ると、暖炉に火を入れ、食事を一つひとつ丁寧に並べる。
窓の外ではひらりと雪が舞い始めていた。
「雪だわ、イークス」
「わんっ」
イークスが嬉しそうに吠え、アンナは自然と頬を緩める。
「見て、グレイ。雪が降ってきたわよ。ホワイトアシニアースね」
彼女は、木製の写真立てをテーブルの中央にそっと置く。
ぎこちない笑顔を浮かべたはずのグレイが、優しく目を細めたように見えた。
「食べましょうか。はい、イークスも。今日は奮発して、お肉も高級よ?」
イークスは尻尾を振りながら、自分の皿に盛られた肉に顔を寄せる。くんくんと匂いを嗅いで、満足げに吠えた。
「ふふ……気に入ってくれて、良かった」
アンナは笑いながら、自分の皿に手を伸ばす。
けれど、一口食べたところで手は止まった。
暖炉の火は、パチパチと乾いた音を立てていた。
窓の外では、降り始めた雪が、静かに、ゆっくりと夜を白く染めていく。
イークスが食べている音が、かすかに響く中──アンナは、テーブルの上の写真立てに目を落とした。
そこには、いつものように笑うグレイの姿。
いつもの軽口と、優しいまなざし。
守ってくれた背中。支えてくれた腕。寄り添ってくれた心──
「……ねぇ、グレイ」
ぽつりと零れた言葉は、誰に届くこともなく、空気に溶けていく。
「あなたがいたら、今頃ふたりでこの食卓を囲んでいたのかしら。毎年プレゼントをくれて……ふふ、意外にこまめだったわよね」
そこまで言葉にしたところで、ふと、喉が詰まった。
涙が、あふれ出す。
微笑もうとした唇が、わずかに震えた。
そのまま喉が詰まり、言葉が出てこない。
気づけば、視界が滲んでいた。
最初のひと粒が、頬を伝って落ちる。
止めようと瞬きをすればするほど、涙は後から後からこぼれ落ちた。
こらえようと唇をきつく噛む。けれど、無意識に震えた息が嗚咽へと変わった。
この家には、グレイと共に過ごしたアシニアースの記憶が染み込んでいる。
暖炉の火も、窓辺の雪も、すべて同じだというのに。
──彼はもう、どこにもいない。
「……グレイ、会いたい……あなたに、会いたい……っ」
肩を震わせながら、アンナは写真立てに手を伸ばし、そっと胸に抱きしめる。
ぬくもりも声も、もうないのに。
それでも、確かにそこにいた彼を、どうしても忘れられない。
「……いないのね。どれだけ待っても……雪が灯っても……あなたは、帰ってこない……」
足元に、柔らかな気配が寄り添った。
イークスが、心配そうにじっとアンナを見上げている。
「……ごめんね、イークス。今日は楽しい夜になるはずだったのに……」
そのあたたかな存在に手を伸ばしながら、アンナは泣いた。
泣いて、泣いて、涙が尽きるまで泣いた。
雪は止むこともなく、静かに降り続いていた。
それはまるで、この夜を、涙ごと静かに包み込もうとしているかのように──
世界そのものが、そっと彼女に寄り添っているかのようだった。




