226.急いで大人になる必要などない
「今年は、雪……降らなかったですね」
家々の窓から漏れる暖かな灯り。通りの先には、聖夜の飾りに彩られた街路樹が、ひときわ鮮やかに揺れていた。にぎやかな笑い声が、途切れ途切れに風に乗って届く。
ルティーは立ち止まり、曇天を仰ぐ。空は低く垂れ込め、いまにも雪が舞いそうな気配を孕んでいるのに、結局ひとひらも降ってはこなかった。
「雪が好きなのか?」
隣を歩くトラヴァスが問いかける声は、いつになく穏やかだった。
「アシニアースに降る雪が好きなんです。あの雪が舞うと、聖夜なんだって感じがして……」
ルティーの声はどこか遠くを見ていた。
夢を語るように続ける。
「雪が、灯りのように舞って、美しくて……世界が静かになって、すべてが祝福されているみたいで……」
「『聖夜に灯る』の影響だな」
トラヴァスはこの時期に行われる市民演目を思い出して、ふっと息を吐くように口の端を上げた。
ストレイア国民の多くが、幼い頃に一度は触れる劇──『聖夜に灯る』。
戦乱によって引き裂かれた家族が、雪の舞う聖夜に再会を果たすという物語。
年に一度、街頭劇としても繰り返し上演され、子どもたちの心に深く刻まれている。
「そうかもしれません。……アシニアースになると、寒い中でも街頭劇を観に行っていました」
「私も観に行ったな。毎年、この時期の楽しみだった。寒いのはいただけなかったが」
トラヴァスがわずかに肩をすくめてみせると、ルティーが楽しげに笑った。
「ふふっ。昔から寒さに弱いんですね」
その笑みはどこかあたたかく、街の灯りを受けてほのかに頬を染めている。
トラヴァスはふと、その横顔に目を細めた。
──やがて、二人の足はルティーの家の近くまでたどり着いた。
家の窓からは明かりが漏れ、人気のある気配がする。
それを確かめて、トラヴァスは胸の内でそっと安堵の息をついた。
「ありがとうございました、トラヴァス様。ここで結構です」
「そうか。走って転ばぬようにな」
「私、そんな子どもじゃありません」
どこか困ったように眉を下げて微笑むルティーの顔は、年齢以上に大人びて見えた。
──まだ十一歳の少女だというのに。
「ルティー。まだまだ、子どもでいなさい。急いで大人になる必要などない」
トラヴァスの言葉に、しかしルティーは凛として声をあげる。
「いいえ。私はアンナ様の付き人です。年に甘えて、子どもでいるわけには参りませんもの」
トラヴァスは、そんな大人の目をするルティーを見て、胸が痛んだ。
それは、王宮を生き抜くための術でもある。前筆頭大将の副官に教え込まれていた、彼女の矜持。
それを無理に捻じ曲げることなどできない。アンナの隣にいるというのは、そういうことだ。
「……わかった。では私の前でだけでも、子どものままでいるといい」
「え……?」
トラヴァスは静かに魔法を詠唱し始めた。
かつて、アンナの誕生日に披露するために、カールと共に覚えたもの。
今はカールがおらずとも、一人で再現できるようになっていた。
彼はそっと手のひらを上に向けると、空中に氷の塊が浮かび上がる。
「──散れ」
その声と同時に、トラヴァスの手が拳に変わる。
瞬間、氷は弾け、無数の小さな粒子となって舞い散った。
家庭の柔らかな光を反射し、氷の粒は宝石のように煌めきながら、ルティーの周囲に降り注ぐ。
「……わぁ……!」
その子どもらしい表情を見て、トラヴァスはほんの少し頬を緩ませた。
「すごい……トラヴァス様、すごいです! 雪が降ってるみたい……」
ルティーは目を輝かせて、宙に舞う氷の粒たちを見上げた。
街の灯や窓明かりを受けて、氷片は淡く色を変えながら、ふわり、ふわりと舞い落ちていく。
指先でひとつ、そっと触れると、すぐに溶けて消えた。
けれどその儚さもまた、美しい。
「ありがとうございます、トラヴァス様……幻想的で、すごく素敵なアシニアースになりました。私……一生忘れません!」
「大袈裟だな」
そう言いながら、トラヴァスの口元にかすかな笑みが浮かぶ。
彼の珍しい表情を見て、ルティーは一瞬目を丸くし、次いで、やわらかく目を細めて微笑んだ。
「さぁ、もう中へ入るといい。ご両親が待っているだろう」
「はい。素敵な魔法を、ありがとうございました!」
「いいアシニアースをな、ルティー」
「トラヴァス様も!」
ルティーが深々とお辞儀をしたそのとき、家の扉が内側からゆっくりと開いた。
控えめな灯りがこぼれ、温もりが辺りをやわらかく包む。
現れた両親が、少女の姿を見つけた瞬間、その小さな体をしっかりと抱きしめた。
トラヴァスは、静かにそれを見届けてから、ゆっくりと踵を返す。
──空から、ひとひら、雪が舞い降りた。
あとに続くように、次々と白い粒が降り始める。
音もなく、やわらかく、冷たく。街は静かに、ゆっくりと白く染まっていった。
トラヴァスは一度、空を仰ぐ。
白い息が、澄んだ空気の中へふわりと溶けて消えた。
そして、小さく呟く。
「……『きっと帰ってくるって、信じてた。──だって、雪が灯っていたから』……か」
それは、『聖夜に灯る』の最後──再会の瞬間に交わされる、誰もが知る言葉だった。
空から降る雪のもと、トラヴァスはしばらくその場に立ち尽くし、
やがて目を細めたまま、静かに歩き出した。




