225.そんなに寒いですか?
本格的な冬の到来とともに、空気がぐっと冷え込んできた。
まだ雪は降っていないが、今にも舞い落ちてきそうな、重たげな曇天が空を覆っている。
この季節、ストレイア王国では〝アシニアース〟と呼ばれる聖夜が訪れる。
それは、家族と共に過ごす特別な一日だ。
親しい者たちと食卓を囲み、温かな時間を分かち合うこの日。
毎年、カールはこの時期に必ず休暇を取り、森の奥にある故郷の家へと帰っていく。
地方出身者の多くはこの日を中心に、新年の二日までの長い休みを取るのが通例となっていた。
そのぶん、王都に根を下ろす者たち──とくに要職に就く者たちにとっては、年の瀬は繁忙期となる。
筆頭大将であるアンナにとっても、それは例外ではなかった。
「トラヴァス、ルティー。遅くまで手伝ってもらって、すまない。せっかくのアシニアースだというのに」
書類をすべて片づけ、ようやく一息ついたアンナが、手伝ってくれた二人に向き直って礼を言った。
「お気になさらないでくださいませ、アンナ様」
「言うほど遅い時間ではありませんよ、筆頭。まだ七時を回ったところですから」
冷静な声音でそう返したのは、すっかり仕事モードのトラヴァスだった。
──いつか自分たちがトップに立てたら、アシニアースは早めに仕事を切り上げよう。
グレイとそう誓い合った日が、遠く胸によみがえる。
けれど、その理想を叶えるには、もう少しだけ時間が必要なようだった。
日々の職務に慣れるだけでなく、改革を進め、全体を効率よく回せるように。
「トラヴァスも、今日は家に帰るのだろう?」
「そうするつもりです。今日くらいは帰らないと、家族がうるさいので」
「悪いが、ルティーも家に送り届けてやってくれないか」
その言葉に、ルティーがはっとしたように顔を上げ、勢いよく首を振る。
「いえ、私は……!」
「明日の出勤は、少々遅れても構わないよ。家族でゆっくり過ごしておいで、ルティー」
アンナの穏やかな声に、ルティーは何も言えなくなってしまった。
瞳が揺れるのを押し隠しながら、小さく頭を下げる。
「……ありがとうございます。あの、では……お願いできますでしょうか、トラヴァス様」
ルティーの声に、トラヴァスは軽く頷く。
「もちろんだ。先に門のところで待っていなさい、ルティー。一度部屋に戻るが、すぐに追いつく」
「はい。わかりました」
ルティーが軽く礼をして部屋を出ていくと、トラヴァスは改めてアンナの方へ視線を向けた。
「アンナはどうするつもりだ?」
周囲の目もなくなり、仕事も一段落ついた今、トラヴァスは友人の言葉で問いかける。
アンナもまた少し表情を緩め、オフモードに切り替えると、まなじりをわずかに下げた。
「今日は、私も家に帰るわ。たまには空気の入れ替えをしておきたいし。イークスも、今日くらいはあの家で過ごしたいと思うの」
そう言って、アンナは執務机の引き出しから、小さな写真立てを取り出した。
その中には、ぎこちない笑みを浮かべたグレイの姿が収められている。
トラヴァスは余計な言葉は紡がず、ただ静かに頷いた。
「そうか……いいアシニアースをな、アンナ」
「あなたもね、トラヴァス。ルティーのこと、お願いするわ」
「ああ、問題ない。帰るついでだ」
そう返して、トラヴァスはアンナの執務室を後にした。
***
王宮の門を抜けると、冷たい風が頬を打った。
曇った空の下、ルティーが一人、空を見上げて白い息を吐いている。
星は見えないが、雲越しにぼんやりと月の光が滲んでいた。
「待たせてしまったか?」
「──あっ、トラヴァス様! いえ、私も今着いたところです」
鼻先を赤く染めながらも、ルティーはぱっと笑みを見せる。
その無垢な笑顔に、トラヴァスは思わず目を細めた。
「上着もなく、寒くはないのか?」
「これくらいなら平気です」
「……そうか」
トラヴァスは、自室から持ってきた厚手のコートにマフラーまで巻いていながら、トラヴァスの肩はわずかに震えていた。白い息を吐きながら、静かに一歩を踏み出す。
「行こう」
「はい。……あの、そんなに寒いですか?」
「寒いのは苦手なのだ」
氷徹と呼ばれる氷使いが震えている姿を見て、ルティーはくすくすと笑った。
「真冬の宿舎は、特に寒かったな。女子寮も同じだそうだが、ルティーは大丈夫か?」
「はい。どうにか凌いで過ごすしかありませんし」
「我慢強いな。だが、困ったことがあれば遠慮なく言いなさい。アンナにでも、私にでも構わない」
「……はい。ありがとうございます、トラヴァス様……」
ルティーはそう答えながらも、ふと目を伏せた。
その横顔を見ながら、トラヴァスは彼女の歩調に合わせて歩く。
「──家族とは、仲が良くないのか?」
ふと出てきた疑問に、ルティーはきょとんと目を向ける。
「え? どうしてそう思われるんですか?」
「いや……アシニアースだというのに、アンナが言わなければ、ルティーは家に帰らなかったのではないかと思ってな」
「……仲は……いいですよ。とても」
ルティーの笑顔はどこか悲しそうで。しかしトラヴァスはそれ以上踏み込まなかった。
聞かないでと、その顔に書いてある気がしたから。




