224.あいつ、俺のことすぐおちょくってくんだよなぁ
その日は、軍の訓練が早めに終わった。
夕暮れの光が石畳を金色に染めていく。
「ルティー、ご苦労だったな。今日はもう帰っていい」
「かしこまりました」
終業時間の五時半には少し早いが、アンナはルティーに帰りを促した。
冬が近づくにつれ、陽はあっという間に落ちていく。宿舎は近いとはいえ、早く帰すに越したことはない。
ルティーが小さく頭を下げて去っていった後、終業の鐘が鳴るか鳴らぬかのうちに、扉が勢いよく開いた。
「おっと、ギリギリセーフ! これ、今日の報告書な!」
「ばかもの、ギリギリアウトだ。特別な理由がない限り、就業時間内に持ってこいと何度言えばわかる」
筆頭大将のオンモードに、カールは「へぇへぇ」と若干うんざりした表情を見せながら、報告書を差し出した。
本来なら、最終報告書は将が届けるもの。第四軍団の将・フゼックがそれを怠るはずもないが、どうやら彼は毎回、カールの説得に折れているらしい。
粘って交渉した末に来るから、いつも遅れるのだ。
(まったく、カールにも困ったものね。どうしてわざわざ書類を自分で持って来たがるのかしら)
書類にざっと目を走らせると、男らしさを感じさせる整った筆致で、要点がきれいにまとめられている。フゼックの書いたものに間違いはなかった。
数点だけカールに確認を取ると、彼は迷いなく答えた。
(フゼックも、カールを育てようとしているのかもしれないわね)
そう思いながら、アンナはパサリと書類を置いた。
「よし、問題ない。帰って構わないぞ」
「終わったんならよ、そのオンモードやめようぜ」
「……私はまだ仕事が残っているんだ」
「げー、マジかよ。手伝うか?」
「いや、いい。私の仕事だからな」
「……そっか。無理すんなよ!」
軽く手を振るカールを見送ると、アンナは残った書類に黙々と目を通し、区切りのついたところでようやく椅子から立ち上がった。
ほんの少し背伸びをしてから、静まり返った廊下を抜けて、演習場へと足を向ける。
すでに誰の姿もない広場には、夜の冷気が染み渡っていた。
空には星がまたたき、ランプの灯が小さく揺れている。
アンナは剣と盾を手に取った。
光の剣クライヴソリッシュと、神の盾アイアース。
どちらも、自身の身体が癒えて以降、ほとんど毎夜のように振るってきた。
想定する相手は──シウリス。
まさかとは思うが、再び「手合わせをせんか」と言われない保証はない。
虚空に彼の姿を思い描き、剣を振るい、盾を構える。
何度繰り返しても、イメージの中の彼には届かない。
だからこそ、なおさら、振り続ける。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
それでも足りない。気力も、技術も。
シウリスの幻影に、届かない自分が悔しかった。
そのとき、遠くから声が届いた。
「おーい、もうやめとけって。肩壊すぜ」
振り返ると、カールが紙袋を片手にこちらへ歩いてきていた。
「……まだ少し、足りない気がして」
「十分だっつの。ほいよ、差し入れ。まだ飯食ってねぇんだろ?」
差し出された紙袋には、焼きたてのパンと、干した果物が数片。
湯気とともに、香ばしさが辺りに広がる。
「ありがとう……嬉しいけど、どうして?」
「そりゃあ、アンナの腹が鳴る時間、だいたい把握してっしな」
カカッと笑うカールに、アンナはちょっとだけ顔をしかめたが、それ以上は突っ込まずにパンを受け取った。
「気が利くわね。助かるわ」
照れくさそうに鼻をかいたカールは、そのままアンナの隣に腰を下ろした。
並んで座り、しばし夜空を見上げる。
静けさを破ったのは、アンナの言葉だった。
「……軍学校では、グレイと三人で、よくこうして話をしたわね」
「ああ。あいつ、俺のことすぐおちょくってくんだよなぁ」
「ふふ。それだけカールがかわいかったのよ」
「かわいいって……ちぇ、ガキ扱いかよ」
笑い合う中で、アンナはふと視線を落とす。
月明かりに照らされたその横顔に、カールは思わず目を奪われた。
風に揺れる髪、柔らかく目尻の下がったまなざし。
どこか無防備で、今にも壊れてしまいそうな静けさ。
「……なに?」
視線に気づいたアンナが、小首を傾げる。
「いや、なんでもねぇ。ちょっと……疲れてんのかな、俺」
とっさに目を逸らし、夜空を仰ぐ。
何度も言いかけては呑み込んだ想いが、胸の奥でゆっくりと渦巻く。
「……ありがとう、カール。ほんとに、いつも」
ふいに届いたアンナの声に、カールは一瞬だけ動きを止めた。
「カールがいてくれてよかったって、最近よく思うの」
その言葉に、カールの指先がぴくりと震えた。
だが顔には出さず、軽く肩をすくめて返す。
「言ったろ? お前の腹の音のタイミングは、完璧に把握してんだって」
「もう、それやめてよ……!」
笑い声が、冷えた夜気の中に心地よく響いた。
カールはその笑顔を、そっと横目で見つめた。
気づかれないままで、いいと思っていた。
けれど、ほんの少しだけ伝わったら──
そんな淡い願いが、胸の奥でゆっくりと灯をともす。
「美味しい。カールは食べたの?」
「食いながら来ちまった」
「もう、お行儀悪いわねぇ」
笑いながら叱るアンナに、カールも目を細めて笑い返した。
パンを食べ終えた彼女が立ち上がり、軽く礼を言う。
「ありがと、美味しかった」
「おう。ちゃんと休めよ!」
「ええ。おやすみなさい、カール」
アンナが闘技場をあとにするのを見届けると、カールはしばしその場にとどまり、夜空を見上げた。
月はまだ上がりきらず、群青の空ににじむように光を投げかけていた。
「……〝カールがいてくれてよかった〟……ね」
誰に聞かせるでもなく呟いたその言葉に、自分で小さく笑う。
「そりゃあ、悪い気はしねぇけどさ……」
右手で頭をかきながら、ため息をひとつ。
言えない。言うつもりもなかった。
でも、ふとした瞬間に滲み出てしまう想いを、どうすれば止められるというのか。
アンナは、何も気づいていないだろう。
気付いてくれたらと思わなくはないが、グレイを失ってまだ一年余りしか経っていないのだ。
混乱させるだけなら、知らない方がいい。
夜風がひゅうと吹き抜け、赤い前髪を揺らした。
空袋がふわりと舞い上がり、カールはそれをひょいと掴む。
そのぬくもりに、彼女の指先が触れていた記憶が、ぼんやりと蘇った。
「……鈍いんだよな、ほんと。あいつは」
そんな彼女の鈍さすら、愛おしく感じて。
「……ま、ゆっくりでいいか。気長に行こうぜ、俺」
自嘲気味に笑いながら立ち上がる。
胸の奥で燃える恋心は、炎ではなく、じんわりと灯る火だ。
少し前──アンナとトラヴァスと三人で、グレイの墓を訪れたとき。
カールは、墓前でそっと語りかけていた。
アンナを幸せにするための行動が、自分にも許されるなら──
どうか、それを見守ってくれと。
返事はない。けれど、風が強く吹いた気がした。
(アンナだけじゃない。お前にも、時間が必要だよな……)
カールは鞘から剣を鞘からゆっくりと抜いた。
「まずはお前を超えてからだ……グレイ!!」
闘技場に、ひとつの影が音もなく駆ける。
疲れも知らず、誰に見せるでもなく、黙々と剣を振るい続けていた。




