223.ふと前を見ると──あの背中が見える気がするの
翌朝。
アンナは静かに群青色の騎士服に袖を通し、襟元を整えると、部屋を出た。
石造りの廊下に軍靴の音が響く。ひんやりとした朝の空気のなか、王城はいつもと変わらぬ静けさに包まれている。
シウリスの執務室の前に立ち、控えめにノックをすると、中から「入れ」と短い声が返った。
扉を押し開けると、机に向かっていたシウリスが顔を上げ、口の端をにぃっと引き上げた。
「今日からか」
「っは。長らくの休暇をお与えくださり、ありがとうございました」
アンナは踵を揃え、背筋を正して頭を下げる。
命日当日に墓前に立つことは叶わなかったが、王都へ戻る前、イークスと連れ立ってグレイの墓を訪ねることはできた。
シウリスがなぜあのとき自分に休暇を与えたのか、アンナには未だにわからない。だが今はただ、真摯に感謝を伝えるのみだ。
「休暇中、なにか面白いことでもあったか?」
何気ない問いに、アンナは一瞬、答えに詰まる。
遺跡でスヴェンと出会ったことを報告すべきか否か。軍務中の出来事ならば義務が生じるが、今回はあくまで私的な休暇の範疇だ。
何より、話の中心は彼女自身の出自──父親に関わるものであり、国家的機密でも軍機でもない。
サエスエル国の動向は気になるところだが、雷神が彼らに手を貸す可能性はきわめて低いとアンナは判断していた。
それよりも、この話を持ち出せば、スヴェンとの再会だけでなく、彼から渡された〝笛〟のことも話さねばならなくなる。
それは、いずれ父と再び繋がり得る手段を得たということ。
雷神は母アリシアから聞いた性格とスヴェンからの情報から察するに、遠く離れた地で静かに古代遺跡の研究を続けている。
その平穏を、シウリスに話すことで破ってしまうことになりかねなかった。
会ったこともない父親だが、彼の平穏を奪いたいわけではない。
アンナは迷い、そしてそのことに関して口を閉ざずことにした。
「そうですね、旅行自体初めてでしたので、色々と楽しめたと思います」
静かな微笑を添えた返答に、シウリスは一つ、短く頷く。
「そうか。ならば、よい」
彼は再び視線を手元の書類へ落とした。
この部屋でグレイが命を落としてから、一年。
まるで、それが幻だったかのように、執務室にはただ淡々とした日常だけが流れている。
「どうした、アンナ。まだなにかあるのか?」
不意に向けられた問いに、アンナは少しだけ躊躇い、それでも意を決して口を開く。
「実は、ひとつお願いが」
「なんだ?」
たった今、胸の奥に浮かんだ思いつきだった。けれど思い立ってしまっては、伝えずにはいられなかった。
「ここにラベンダーの鉢植えを置いてもよろしいでしょうか」
「……ラベンダー、だと?」
意外そうに眉をひそめるシウリスに、アンナは真剣な瞳を向ける。
「はい。いい香りでリラックス効果もありますし、ぜひ」
アンナの言葉にシウリスは眉を一瞬顰めたが、すぐに口元を上げた。
「ふん、構わんが……俺は世話などせんぞ。お前が責任を持ってしろ、アンナ。欠かさずにな」
「ありがとうございます!」
ほっと安堵の息をついたアンナは、弾む声でそう返した。
シウリスはそっぽを向きながら、「ふん」と小さく鼻を鳴らす。
献花もままならぬこの空間で、せめてグレイのためになにかを──
香り高いラベンダーが、ほんの少しでも彼の代わりにこの場に在ってくれたなら。
アンナは胸に小さな灯をともして、姿勢を正し、一礼して執務室をあとにした。
***
アンナがシウリスの執務室に置くラベンダーを買ってから数日後。
「シウリス様の執務室のラベンダーってよ、アンナが置いたのか?」
久々に三人で外に食事に出かけた席で、カールがそう問いかけてきた。
「ええ。シウリス様に聞いたの?」
「いや、今日シウリス様の部屋に行く用事があったからよ……鉢は違ったけど、アンナの部屋と同じ花があって、気になってたんだ」
「……ラベンダーなど、置いてあったか?」
トラヴァスが無表情で問いかける。
「気づいてなかったのかよ、トラヴァス」
「そこまでじろじろ見たりしないからな」
「匂いでわかんね?」
「……私は鼻が悪いのか?」
トラヴァスの真剣に悩むような言葉に、アンナはくすくすと笑う。
「しっかし、なんだって鉢植えをわざわざシウリス様の部屋に置く必要があったんだ?」
カールの問いに、アンナはグラスの縁に指を添えながら、ぽつりと答える。
「……あの部屋で亡くなったグレイのために、なにか……してあげたかったの。ただの、自己満足よ」
静かな告白に、男たちは顔を見合わせてから、真っすぐにアンナを見る。
「なるほどな。そっか。きっと喜んでるぜ、グレイ」
「だといいけれど」
「喜ばぬわけがなかろう。アンナのすることなら、あいつはなんだって喜んでいた」
トラヴァスの確信に満ちた口ぶりに、アンナは小さく目を細めた。
「……ふふ、そうだったわね」
ちょうどそのとき、店員が飲み物を運んできた。
木のテーブルにグラスが置かれ、氷がコトリと澄んだ音を立てる。
窓の外には宵の帳が降り始め、家々の灯りが揺れながら瞬いていた。
「……こうして三人で、外で飯食うのも久しぶりだよな」
カールがグラスを手にしながら呟く。
アンナとトラヴァスも頷いた。
「たまには、こういう時間も必要ですものね」
アンナが微笑みながら言うと、トラヴァスが少しだけ口元を緩める。
「必要、か。……確かに、いつも詰めすぎているのは否めんな」
「お前に言われると説得力あんな。仕事人間代表みてぇなやつだし」
「言っておくが、お前よりは人間らしい暮らしをしている自信があるぞ」
「お? 言ってくれんじゃねぇか、トラヴァス。誰が本能丸出しの動物だっつの」
カールが軽く肩を揺すり、トラヴァスが冷静にグラスを傾ける。
そんな二人を見ながら、アンナは柔らかく笑った。
「はいはい、喧嘩しない。そういうの、グレイなら止めずに笑って見てるわよ」
その一言に、二人の動きがふと止まる。
懐かしい記憶が、そっと胸に蘇ったようだった。
「……笑って、最後に一番いいとこ持ってくんだよな、あいつ」
「そうだったな。結局、全部持っていく男だった」
どこか寂しげに言うトラヴァスの言葉に、アンナは目を伏せる。
「……今でも、ふと前を見ると──あの背中が見える気がするの」
「……俺もだ」
言葉を交わさずとも、三人の心に同じ人の面影が浮かぶ。
不器用で、優しくて、どこか影があって。
でも確かに、皆の背中を支えてくれた、グレイの姿を。
静かな沈黙が流れる。だがそれは、どこかあたたかなものだった。
「……なあ、今度、三人であいつの墓参りに行かねぇか?」
不意に、カールが提案した。
アンナとトラヴァスは、驚いたように顔を上げる。
「グレイだって、俺らがバラバラに思い出してるより、一緒に思い出してやった方が嬉しいだろ」
「……カールもたまには、まともなことを言うのね」
「うっせ。俺はいっつもまともだっつの!」
アンナは小さく吹き出してから、まっすぐに頷いた。
「……行きましょう。三人で」
「ああ」
「決まりだな。じゃ、今度の休み合わせっか」
乾杯の合図もなく、三つのグラスが軽く触れ合った。
アンナの隣席は今、誰も座っていない。
だが、確かに、彼の存在はそこにあった。
吹き抜ける風のなかに、ラベンダーのやさしい香りが、ほんのりと漂った気がした。




