222.あなたの顔を見たら、元気が出てきちゃった
休暇を終えると、アンナは王都へと戻ってきた。
イークスを裏山へ放ち、軽く息を整えてから王宮の門をくぐる。
石畳を踏みしめたその瞬間、聞き慣れた陽気な声が飛んできた。
「お、帰ってきたか!」
顔を上げると、いつものようにカールが手をひらひらと振っていた。
変わらない笑顔に、アンナの心もどこか緩む。肩に入っていた力が、自然とほどけていった。
「ただいま。思ったより早く見つかったわね」
「アンナは目立つかんな」
屈託なく返される言葉に、アンナは苦笑を浮かべる。
「そう? 地味な格好をしてるつもりよ?」
「ま、オーラっつかな。で、どうだった? ちょっとはゆっくりできたかよ」
相変わらずの気安い口調。だが、内心は案じていたのだろうと伝わってくる。
その気持ちがありがたくて、アンナはふっと微笑んだ。
「ゆっくり温泉に入ってきたわ。気持ちよかったわよ」
「温泉地かー、俺も行ってみてぇぜ!」
目を輝かせるカールに、思わずくすりと笑ってしまう。
そんなやり取りも、ここに戻ってきた実感を与えてくれる。
アンナが数歩近づくと、カールは真剣な眼差しを向けてきた。
彼の顔つきが一瞬だけ引き締まる。
「……まぁ、元気そうで安心したぜ。変な連中に絡まれてねぇか、ちょっと気になってたからよ」
「どっちかっていうと、絡んだ側かもしれないわ」
「ぶはっ、絡んだ方かよ! 相手、死んでねぇか?」
カールの冗談に、アンナはあきれ顔で肩をすくめる。
「失礼ね、脅したくらいで殺しはしないわよ」
「なら良し!」
「ふふ、脅しはいいのね」
笑い合うふたりの間に、いつもの軽快な空気が流れる。
それでも、カールの瞳はどこか温かくて。
彼は小さく息をつくと、穏やかに目を細めた。
「ルティーも来てるぜ。行ってやれよ。アンナが無事で帰ってくっか、ずっと心配してたみてーだ」
「ルティーが……わかったわ、ありがとう」
「おう」
その言葉に背を押されるように、アンナは歩き出す。
向かう先は、執務室。アンナの帰る場所。
扉を開けた瞬間──
「アンナ様……! おかえりなさいませ!」
弾けるような声が飛び込んできた。
振り返ったルティーの顔は、ぱっと明るく輝いている。
アンナもまた、自然とその笑顔に引き込まれた。
「顔色、良くなられましたね。……少しは、休めましたか?」
「ええ、おかげさまで。……あなたも、ちゃんと休んでいた?」
互いの様子を確かめ合うように交わす言葉。
その問いに、ルティーは小さく頷き、やわらかく微笑んだ。
「はい。アンナ様がご不在の間は、しっかりとお言いつけ通り、のんびり過ごさせていただきました。……本当にありがとうございます」
「そう、ならよかったわ」
言葉の裏にこもる律儀さも、優しさも、アンナにはよく伝わっていた。
心の底から安心したように、彼女は目を細める。
「あなたの顔を見たら、元気が出てきちゃった」
「それは……私もです。こうして無事にお戻りになって、ほっとしています」
ふたりの笑顔が、自然に重なり合った。
ぬくもりのような沈黙が、部屋を満たしていく。
そこへ転がるノックの音。
扉を開けて現れたのは、トラヴァスだった。
無言のままアンナの顔を見た彼は、ふとその表情を和らげる。
「充実した休暇だったようだな」
「そう言えるわね。トラヴァスは筆頭代行、どうだった?」
「カールが騒がしかったくらいで、仕事は滞りない」
変わらぬ口調に、アンナは思わず笑みをこぼす。
いつもと変わらぬやりとりが、なんだか嬉しかった。
「詳しい報告は明日しよう。アンナは今日までが休暇中だからな」
「気遣ってくれなくていいのに」
「いや……私がまだ、アンナにその口調でいてもらいたいだけなのだ」
指摘を受けて、自分の言葉がオフモードのままだったことに気づく。
少しだけ視線を落とし、肩の力を抜いた。
「……ふふ、ごめんなさい。もう少しだけ、気を抜かせて」
「構わないさ。だがアンナが帰ってきたというだけで、もう周囲の空気は引き締まっているが」
淡々と告げるその言葉に、アンナは困ったように眉を下げた。
「そんな威圧感、出してるつもりないのに」
「出ている。十分にな」
その返しに、思わずルティーがふっと笑いを漏らす。
「でも、それがアンナ様なんです。だから皆、ついていきたいって思うんですよ」
まっすぐな言葉。
トラヴァスも静かに頷く。
「迎える側として言わせてもらえば、やはりアンナがいないと落ち着かん。城の空気が違っていた」
「なぁに、それ。褒めてるの?」
「そのつもりだが?」
どこか不器用なトラヴァスの言葉が、胸の奥をくすぐる。
アンナは思わず目を伏せ、こみ上げる笑みを堪えた。
やがてトラヴァスは、ルティーへと目を向ける。
「ルティー、アンナは無事帰って来た。もう今日は戻って休みなさい。ルティーも仕事は明日からのはずだ」
「……はい、かしこまりました」
深く一礼したルティーが部屋をあとにすると、執務室にはふたりだけが残された。
「ずいぶんと懐かれているな、アンナ」
変わらぬ無表情のまま、トラヴァスが静かに言う。
その声は、どこか穏やかだった。
「ルティーのこと? ええ……私がいない間、なにかあった?」
問いかけるアンナに、トラヴァスはふと視線を窓際に移した。
「毎日ここに来ていた。窓から空を見上げては、『アンナ様』と呟いていてな」
その光景を思い浮かべ、アンナはそっと目を伏せる。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「放っておけば、いつまでも帰らないものでな。ルティーを帰らせるのが私の日課になっていた」
淡々と告げる声に、優しさが滲んでいた。
アンナは静かに目を伏せた。
「ルティーを気にかけてあげてくれて、ありがとう。……そんなに心配させるつもりはなかったのだけれど」
「心配させないように振る舞っても、心配する者はいる」
「そういうものかしら」
「そういうものだ。……私も、多少なりと気にしていた」
その一言に、アンナの視線が揺れる。
率直で、真っ直ぐな響き。だからこそ、心に染みた。
「ありがとう、トラヴァス。あなたがいてくれて、安心して任せられたわ」
「……礼などいらん。私は私の務めを果たしたまでだ」
そう口にした彼の横顔は、ほんの僅かに柔らかさを帯びていた。
アンナはそれに気づいていた。
そのとき、窓から風がふわりと吹き込み、カーテンが音もなく揺れた。
外は夕暮れ。街を包む空は、やさしい茜に染まりつつある。
「外に出られて……そして帰ってきて、よかったわ」
囁くように零れた言葉。
そこには、アンナの実感が静かに滲んでいた。
「アンナがここにいる……それだけで、十分だ」
そのひとことが、どこまでも自然で、どこまでも温かかった。
アンナは、そっと微笑んでいた。




