221.会ったことがなくても、私の父で……母さんの愛した人だもの
己の父がユウカを妊娠させたと聞いて、アンナはわずかに顔をしかめた。
「……謝罪に行った相手を妊娠させるなんて、最低ね」
冷ややかに放たれた言葉に、スヴェンはあわてて手を振る。
「いえ、違うんです」
「違うって、なにが?」
「ユウカが妊娠したのは、雷神の子じゃない。〝セルビオの子〟なんです」
耳を疑うような言葉に、アンナは眉をひそめる。
「セルビオって……死んだって言ってなかった?」
「はい。ですが、それでもユウカは身籠もり、子を産んでいます。リゼットという名の、セルビオによく似た女の子だそうです」
思考の追いつかない話に、アンナの表情が固まる。
「そんな、まさか……死者の子どもを宿すなんてこと、できるわけが──」
「それだけの秘術の知識が、雷神の中にはあるんでしょう。失敗して死なせてしまったセルビオへの秘術がなにか、突き止めたくなりませんか?」
スヴェンの目は真剣だった。アンナはわずかに唇を噛む。
「なるほど……通常ではあり得ない現象を起こせるなら、彼の知識は兵器にも医療にも応用できる。サエスエル国が手に入れたがるわけね。差し詰め招聘して、国のお抱えにするってところかしら」
冷静に紐解いていくその口調に、スヴェンは静かに頷いた。
「ええ。その通りです。ですが──国が求めているのは〝雷神〟という名の頭脳であって、〝ロクロウ〟という一人の人間ではないんです」
言葉の柔らかさとは裏腹に、スヴェンの瞳にはどこか醒めた色があった。
「つまり、使えるものなら利用して、都合が悪くなれば──切り捨てる。それが国家というものです」
「わかってるわ。でも……あなたの任務は、きっと失敗に終わる。どれだけ条件がよくても、父が国の〝所属物〟になるとは思えない」
スヴェンはひと呼吸置いてから、言った。
「サエスエルには奴隷がたくさんいる。その命が使い放題だと言ってもですか」
アンナは伏し目がちになり、まなざしにふっと陰がさす。
「それでも……信じたい。会ったことがなくても、私の父で……母さんの愛した人だもの」
言葉にすると、それは自分に言い聞かせるようでもあった。
そしてアンナはスヴェンを見つめる。
「それに、本当はあなたも嫌なんでしょう? 元……奴隷だものね」
「いや、まぁ……はは、その通りです」
スヴェンは眉を落としながら苦笑した。
「でも、たとえ断られたとしても構いません。僕の役目は、雷神と〝繋がっておく〟こと。連絡手段を確保する。それだけで十分です」
「世界中を飛び回る父さんとの〝連絡手段の確保〟? そんなこと、できるの?」
「そこは企業秘密です。いくらアンナさんでも、簡単には明かせませんよ?」
にっと笑って、スヴェンは人差し指を唇に当ててウインクする。
それは彼の整った顔立ちゆえに、やけに絵になる仕草だった。
アンナは目を見張りかけたが、すぐに視線を逸らし、ため息をひとつする。
「……ずるいわね、あなた。肝心なところは濁して、そうやって軽くかわして」
「これでもかなり、話している方なんですがね」
少しだけ真面目な声色で、スヴェンは言った。
「僕はね、アンナさん。あなたが雷神の娘であることを、誰にも言うつもりはありません。国にさえも」
それは〝人質〟として利用しないという宣言でもあった。
本気で雷神を追っている者たちなら、彼女の存在を武器にすることもできただろう。
けれどアンナは、そんな簡単に拘束できる女でもない。
しかも今の彼女は筆頭大将──もし拉致でもすれば、ストレイアとサエスエルの間で戦火が上がる可能性だってある。
それは、サエスエルにとっても避けたい事態だ。
「あら、私を守ってくれるの?」
「守るというより……巻き込みたくないんです。僕が追いかけているのは、ただの親探しじゃない。雷神という存在の過去と未来──それは、時に人を壊します」
スヴェンの目は真っ直ぐだった。茶化しも、飾りもない。
「それでもあなたが、もしいつか、父に会いたいと願ったなら。その時は、僕が必ず道を繋げます。……僕なりの、ささやかな恩返しとして」
アンナは黙ったままスヴェンを見つめていた。
彼の中にある複雑な背景と、それでも誰かを傷つけたくないという思い。それが、確かに伝わってきた。
「……じゃあ、その時はお願いするわ。父に会いたいと思った時には、ね」
「ええ、喜んで。僕にできることがあるなら、いくらでも」
ふと、沈黙が落ちた。けれどそれは重たいものではなく、互いに少しだけ心を預け合えたあとの、穏やかな静けさだった。
スヴェンがふと思い出したように、懐から小さな布包みを取り出す。
「これをお渡ししておきます」
「なに?」
アンナが受け取ったのは、手のひらにすっぽり収まるほどの、小さな銀の笛だった。装飾は控えめながら、どこか儀礼的な気配が漂う、精緻な造り。
「僕に会いたい時は、それを吹いてください。近くにいないと多少時間はかかりますけど……必ず、駆けつけます」
「……試しに吹いてもいい?」
「ええ、もちろん。毒なんて仕込んでませんから」
アンナは小さく笑って、笛を吹く──が、音は鳴らなかった。
「鳴らないじゃない。笛じゃないの? あなたには聞き取れるってこと?」
「そこはほら、企業秘密というやつで」
そのやりとりのすぐそばで、イークスがピクリと片耳を動かす。
まるで、何か微かな音に反応したように。けれど、それ以上は動かず、ただアンナの隣に静かに立っていた。
アンナはその反応にほんの一瞬だけ目をやり──なにも言わずに、笛をサッチェルへとしまい込んだ。
「……まぁいいわ。ここまでしてくれるんだもの。今のところはあなたを信じてあげる」
「今のところは、ですか」
スヴェンは肩をすくめ、苦笑を浮かべた。
けれどその表情には、どこか嬉しそうな色も混じっていた。
「また、お目にかかれますように。……どうか、ご無事で」
「あなたもね。変な実験に巻き込まれて、爆発なんてしないように」
「はは、それは怖いですね」
スヴェンが軽く礼をする。
「それじゃ、このへんで。お互い、忙しい身ですから」
「ええ。……気をつけてね」
その一言に、スヴェンはほっとしたように肩の力を抜き、微笑むと背を向けて歩き出した。
スヴェンの足音が静かに遠ざかっていく。
アンナはその背を見送ったあと、ふと遺跡の奥へと視線を移す。
石の気配だけが、静かにそこに残っていた。




