219.でもあなたは、〝地獄の使者〟と呼んだ
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黙したスヴェンを、アンナは細い視線で流し見た。
「随分と身綺麗な格好じゃない。いい職にでも就いたのかしら? 何をしているのか、教えてもらえる?」
問いかけの裏には、静かな威圧が含まれている。スヴェンはわずかに怯んだが、すぐに飄々とした笑みを浮かべた。
「……別に、大したことはしていませんよ?」
その軽さに、アンナの口元がわずかに吊り上がる。
「サエスエル国の奴隷だったあなたが、鉱山区に流れて、今はそんな身なり。どんな成り上がりをしたのか、聞かせてもらいたいものね」
「……運が良かったんですよ。金持ちに拾われて、国に戻れました」
「嘘ね」
言うが早いか、アンナの手がスカートの中へと滑り、短剣を引き抜いた。
「ストレイアの鉱山区に、サエスエルの金持ちが来るはずがない。それに、あなたはあの時、顔に泥を塗っていた。綺麗な顔を、あえて隠す理由があった。つまり、自分の素性を晒せない立場だったということよね?」
じわじわと、その視線の鋭さが増していく。まるで短剣の切っ先が、すでに相手の胸元を突いているかのような鋭さで。
「身元不明のまま、あの村にいた理由は何? 『拾われた』なんて曖昧な言い訳で、誤魔化せると?」
スヴェンが何かを言いかけ、視線を逸らした。その仕草ひとつで、アンナには十分だった
「身のこなしも妙ね。鉱夫崩れにしては、動きが洗練されすぎている。誰かに仕込まれた動き」
イークスが唸る。主人の緊張を感じ取り、戦闘態勢に入る。
「装備もそう。傷一つないブーツ、手入れの行き届いた鞄。誰かがあなたを〝生かすため〟に物資を与えてる。……あなたは、どこかに所属している」
アンナの声が、低く深く落ちる。
「──その〝所属〟こそが、私の父を探している理由であり、ヤウト村を出た理由にも繋がっている」
スヴェンの顔が青ざめていく。アンナは一切容赦を見せない。
「どうする? スヴェン。口を開く? それとも私とやり合う?」
短剣の切っ先が、改めてスヴェンに向けられた。
「やめてください。アンナさんとグレイさんは……僕の命の恩人なんです。いつか、お礼に伺いたいと思っていたくらいで。……グレイさんはご一緒じゃないんですか? 挨拶を──」
その言葉に、アンナの瞳が沈んだ。
「グレイは……死んだわ」
「……え」
スヴェンは絶句し、申し訳なさそうに視線を落とした。
「……すみません。知らなかった。最近、噂にも上がらないから……」
「私のことは知っていたのに?」
「当然です。この国の筆頭大将で、〝地獄の使者〟とまで呼ばれている方ですから」
「地獄の使者、ね──」
呟いた瞬間、アンナの姿が一閃した。スヴェンの顎に、冷たい刃が突きつけられる。
「アンナさん──!? なにを──」
「私を〝地獄の使者〟と呼ぶのは、敵国の者よ。ストレイアでは、〝群青の悪魔〟と呼ばれている」
「どっちも似たようなものじゃないですか!」
「ふふ、ええ。でもあなたは、〝地獄の使者〟と呼んだ」
「……っ」
スヴェンの顔から、血の気が引いていく。
まだ刃は肌を傷つけていない。それでも、アンナの瞳に宿る氷のような光が、何よりも鋭かった。
「……言葉の選び方って、大事よね?」
微笑みとともに囁かれたその言葉は、刃よりも鋭い。
「つまりあなたは、ストレイアではなく〝敵国側〟の情報で、私の名を知っていた。そうよね?」
刃の圧が、わずかに強まる。スヴェンが喉を鳴らした。
「……たまたま耳にしただけかもしれません。兵士や商人の噂は国境を越えますし」
「また誤魔化すつもり? どこで情報を仕入れたの?」
スヴェンが沈黙したままなのを見て、アンナはひとつ息を吐き、刃を収めた。
「……話す気がないなら、それでもいい。ただ、覚えておいて。私は〝敵〟には容赦しない」
短剣をスカートの中へ戻しながらも、アンナの視線は決して緩まなかった。
スヴェンは数歩引き、息をひとつ落としてから、ようやく口を開く。
「僕は……確かに、今はある組織に属しています。でも、敵か味方かは、まだ決まっていません」
「は?」
「僕は、〝中立〟の立場で動いています。……少なくとも、今はまだ」
アンナの眉がわずかにひそめられる。イークスも低く唸り、主人の警戒を代弁するように気配を強めた。
「……なるほど。つまりあなた、サエスエルの〝任務付き〟で動いているのね。そうでなければ、あの立場からの帰国なんてあり得ない」
アンナは静かに結論を下す。工作員──その言葉が浮かび、そして確信となる。
スヴェンは、沈黙ののち、ゆっくりと顔を上げた。
「……話します。敵じゃないと、信じてもらいたいので」
その声音に、アンナは目を細めた。
スヴェンは、覚悟を込めた呼吸のあと、静かに口を開いた。
「僕は……サエスエル国の〝情報任務部門〟に所属しています。いわゆる、工作員です」
アンナの指が再びスカートに触れたが、刃は抜かれなかった。スヴェンの瞳が、まっすぐ彼女を捉え続けていたからだ。
「でも……ストレイアに危害を加えるつもりはありません。任務の目的は〝雷神〟──あなたのお父上を見つけること。それだけです」
「それだけ、ね」
アンナの声が冷たく落ちる。
「そんな話、信じられると思う?」
「信じてほしいとは思っていません。ただ、だからこそ……隠さずに話しています」
スヴェンの声に、静かな決意がにじんでいた。
「命を救っていただいたあの日から、僕は変わったんです。あの恩を裏切るつもりはない。あなたに刃を向けることもありません。……たとえ、任務に背くことになったとしても、あなたにだけは嘘をつきたくなかった」
アンナの目が、わずかに揺れた。
その一言一言が、誠実で──命をかけた告白だった。
(信憑性は高いけれど……正直に言い過ぎね。どこまで本当か、逆に疑わしくなっちゃったわ)
それも含めて、スヴェンの作戦だろう。油断ならない、と思いながらも、アンナは彼の言うことを一旦受け入れる。
「……いいわ。今のところは、ね」
アンナの言葉に、スヴェンはようやく肩の力を抜いた。
「で? どうして私の父──ロクロウを探しているの?」
「……ロクロウ?」
その名に、スヴェンの表情が曇る。
「知らなかったの? 〝雷神〟の本当の名は、ロクロウよ」
スヴェンは言葉を失ったまま、立ち尽くしていた。
彼の任務対象──ずっと〝シロウ〟と認識していた名の正体に、愕然とするように。




