218.もしかして、言えないこと?
裏山に足を踏み入れたアンナは、獣道の先にあるいつもの寝床に目を向けた。
丸まった影が、藪の陰に見える。
「イークス……」
名を呼んだ瞬間、ふいに影が跳ね起きた。
濃い灰色の毛並みを逆立てた獣が、まるで『姐さん!』とでも叫ぶかのように一直線にアンナへと駆け寄ってくる。
「ちょ、ちょっと待って、わかったわ!」
間に合わない。そう思う間もなく、イークスが跳びついた。
大きくなった体がアンナを抱きしめるように包み、ぺろぺろと頬を舐めてくる。
「ふふっ……もう、やめなさいってば……!」
笑いながらよろめきつつ、アンナは彼の首筋に腕を回す。その体躯の厚みに、彼女はふと気づいた。
「……あなた、少し太った?」
一週間も世話をしていなかったせいで、イークスが痩せていないかと案じていたが、心配は杞憂だった。
むしろ、前よりがっしりとしている。
「自分でちゃんと餌をとっていたのね。えらいわ。さすがよ」
アンナが笑いながら頭を撫でると、イークスは「くぅん」と小さく鼻を鳴らす。
なにかを訴えるような声だったが、アンナはただ静かにその毛並みに指をすべらせた。
***
そうして一人と一匹は、北を目指して乗合馬車に乗り込んだ。
木馬車の車輪がガタゴトと石畳を鳴らす音が、旅の始まりを告げる。
道中、いくつかの町や村に立ち寄っては一泊し、三日目に目的地であるアールイゼ地方へと到着した。
「ここの温泉、効能がすごいらしいのよ。傷や疲労に、とっても効くらしいわ。さあ、行きましょう、イークス」
私服姿のアンナは、軍服ではなく落ち着いた焦げ茶のロングスカートに、襟元の詰まった柔らかなシャツを合わせていた。
盾も剣も持ってはいない。
太ももにベルトで留めた短剣一本だけが、警戒心の名残だった。
初めて訪れる町の空気は、どこか甘やかで、心が浮き立つ。
イークスも同じように落ち着かない様子で、鼻をひくひくさせながら辺りを見回していた。
宿を取り、アンナはたっぷりと温泉に浸かる。
肩まで湯に沈んだ彼女の表情は、ゆるくほどけていた。
温泉宿で出される素朴な料理も、驚くほど美味しい。
「旅行なんて、初めてかもしれないわ……」
いつか、グレイと一緒に行こうと語り合った数々の場所。
異国、遺跡、バキアにも乗ると張り切っていた。
だが結局、どこへも行けないまま、彼は静かに逝ってしまった。
それでも今、こうしてアンナが各地を巡ることが、ささやかな供養になるように思えた。
共に歩くことはできなくても、見た景色を、感じた空気を、心の中で彼に語りかけることはできる。
墓前に花を手向けられなかった代わりに。
こうして風景の中に彼の面影を探すことで、隣にいるような気分が味わえた気がした。
ぐっすり眠った翌朝、すっかり疲れが取れていたアンナは、ふと思いついたように窓の外を眺めて呟いた。
「……そうだわ。遺跡、あったわね」
来る途中で見かけた時から、心のどこかがそわそわしていた。
装備が万全ではないため深入りは避けるつもりだったが、それでも遺跡という言葉には、抗えない興奮があった。
「こういうところ、父さんに似ちゃったのかしら……」
陽が高くなりはじめた頃、アンナはイークスと共に、町外れの丘にある古代遺跡へと足を運んだ。
***
「魔物がいるかもしれないし、深入りはしないでおきましょう。短剣しか持ってないし……」
入り口の石碑を見上げながら、アンナはイークスに釘を刺す。
「帰り道も覚えておいてね。もしものときは、あなたが頼りよ」
薄暗い洞窟のような通路を進むと、時折、苔むした石壁の隙間から光が差し込む。
古代の文様が刻まれた石柱の影から、冷たい風が吹き抜けた。
しばらく歩いたその時、ふと奥のほうから人の声が聞こえてきた。
「うーん……一体どこにいるのかなぁ……雷神は……」
その言葉に、アンナの足が止まる。
(雷神?)
そう呼ばれていたのは、まさしくアンナの父親だ。
慎重に歩を進め、石柱の向こうを覗き込むと──そこに、銀色の髪を後ろで一つに結った若い男の姿があった。
(……トレジャーハンターかしら)
冒険者のような軽装。鍛えた体つき。
そして、どこか整いすぎた顔立ち。
その男がアンナの気配に気づき、振り返った。
「アンナ、さん……!?」
驚愕に目を見開いたその声に、アンナも思わず言葉を失う。
「……私を、知ってるの?」
問いかけながら、アンナの脳裏にある記憶が蘇った。
銀の髪。薄紫色の瞳。中性的で美しい少年──
「あ……もしかして……スヴェン!?」
少年の頃、アンナとグレイを助けてくれた、あのサエスエルの奴隷の少年だった。
成長した今も、その整った顔立ちは変わらない。だが声も、目の奥の強さも、すっかり青年のそれになっていた。
「お久しぶりです、アンナさん」
柔らかく微笑むスヴェンに、アンナは驚きと安堵を滲ませながら声をかける。
「あなた、ヤウト村に行ったんじゃなかった? あそこは戦場になったから、ずっと気になっていたのよ」
ヤウト村──フィデル軍に寝返り、反乱を起こした鉱山区。
スヴェンの安否はずっと気がかりだったが、消息はぷつりと途絶えたままだった。
「……まあ、ちょっと色々あって。ヤウト村で働くのは、終わりにしたんです」
「今はトレジャーハンターなの? さっき、父の名を口にしていたけれど……」
そう問うと、スヴェンは小首を傾げる。
「……父?」
「ええ。〝雷神〟って、私の父の通り名なのよ」
次の瞬間、スヴェンの目が大きく見開かれた。
「えっ!? アンナさんの、お父さんが……雷神!?」
「そうよ。で、スヴェン……どうして父を探しているの?」
ふと、空気が変わった。
問いかけに、スヴェンは一瞬口を開きかけ、そして言葉を飲み込む。
その僅かな逡巡に、アンナの瞳が鋭く細められる。
「……あら。もしかして、言えないこと?」
静かに、冷ややかに落ちるその声に、スヴェンの喉がごくりと動いた。
「ヤウト村を出た理由と……なにか、関係があるのかしら?」
冷たい視線の奥に潜む圧力に、スヴェンはたじろぎ、冷や汗をにじませながら沈黙した──




