217.私のこと、少しだけ
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「アンナ様、動いてはいけません!」
小さな声ではあったが、その語気は思いのほか強かった。
ルティーの真剣な瞳を見て、アンナは思わず苦笑をこぼす。
「あれから一週間も経っているんだ。ルティーのおかげでもうほとんど問題なく動ける」
「ほとんどということは、まだ本調子ではないということです。ゆっくりしていてくださいませ!」
わずか十一歳の少女に怒られてしまい、アンナは苦笑いを漏らした。
(本当にもう、大丈夫なのだけれど。なにもさせてもらえないって、暇だわ)
毎日のようにルティーが回復魔法をかけてくれるおかげで、痛みはすっかり引いている。残るのは、わずかな怠さだけ。
しかしルティーは、少しの無理も許さず、ベッドから出ようとするアンナをすぐに引き止めてしまう。
(せめて、裏山にイークス見に行きたいわ。大丈夫だとは思うけれど、こんなに長い期間空けるのは初めてだし……)
けれど外に出ようとするたび、ルティーの目は鋭く光る。
餌だけでもと預けたくなるが、基本的にイークスは、人に懐かないのだ。
「ルティー、少しだけ……」
「いけません」
きっぱりと断られて、アンナはお手上げとばかりに眉を下げた。
その時、控えめなノックの音が響いた。
ルティーが扉を開けると、群青の軍装に白いグローブを身をにつけた男が、静かに入室してくる。
「トラヴァス」
その姿に気づいたアンナが、小さく笑んだ。
「どうだ、アンナ。調子のほどは」
入ってきたトラヴァスは、いつもの無表情で問いかける。
「見ての通り、もう問題はないんだがな。ルティーがなにもさせてくれないんだ。お前からも、どうにか言ってやってくれないか?」
困ったように肩をすくめるアンナに、トラヴァスはふと視線をルティーへと向けた。その表情が、わずかに和らぐ。
「……さすがのお目付け役だな。だが、あまり縛り付けてやるな」
その一言に、ルティーはきゅっと口を引き結び、しょんぼりと眉を下げた。
「ですが、まだ本調子では──」
控えめに抗議する声に、トラヴァスはほんのわずかに声を和らげる。
「……心配しているのだな」
まっすぐ向けられた言葉が恥ずかしくて、ルティーは俯くようにして言葉を続けた。
「アンナ様はあの日から、ずっと高熱が続いて……やっと落ち着いたばかりなんです。無理をして、また倒れられたら……」
呟くような訴えは、どこか責めるでもなく、ただ切実だった。
トラヴァスは静かに頷くと、今度はアンナへと視線を戻す。
「ルティーの言葉にも、一理あるぞ。アンナは将になってから、まともに休んでいないだろう」
トラヴァスの指摘に、アンナは言葉を詰まらせた。
「休むこともまた、上に立つ者の仕事だ。どちらにしろ、シウリス様が二週間の休暇をくださっているのだ。休まなければまたなにを言われるかもわからん」
「……だが」
「筆頭大将代行を、少しは信用してもらいたいものだな」
皮肉とも忠告ともつかぬ口調に、アンナは口をつぐむ。
「ここにいては仕事をしたくなるというのなら──どこか、旅行にでも行ってみてはどうだ?」
「旅行?」
思いもよらない提案に、アンナは目を瞬かせる。
「ただし、無理のない範囲でな。温泉地であれば、療養にもなるだろう。ゆっくりしてくるといい」
促すように淡々と続けられた言葉に、アンナはしばらく黙っていたが、すぐに首を横に振った。
「……私だけ、そんなのんびりなどできるか」
「言っただろう、アンナ。休むことも上に立つ者の仕事だと。上が率先して休まなければ、下の者は安心して休むこともできまい」
そう言って、トラヴァスはそっとルティーに視線を向けた。
アンナが倒れてからの一週間、ルティーはほとんど寝ずに付き添い続けていたのだ。
その事実に気づき、アンナもハッと息を呑む。
ルティーは慌てたように両手をぶんぶんと振った。
「い、いえ! 私は別に……っ」
「無理をする必要はない。ルティーまで倒れられては困るのでな」
その優しい声音に、ルティーは唇を引き結び、俯くようにして呟くように言った。
「私は……大丈夫です」
どこか寂しげなその姿に、アンナは胸を突かれたような気持ちになる。
「すまなかった、ルティー……。私は今日から一週間、しっかり休む。トラヴァスの言う通り、温泉地にでも行ってこよう。その間、ルティーもしっかり休んでいてくれ」
「……はい。わかりました」
ルティーはまだ釈然としない表情を浮かべていたが、それでも小さく頷いた。
その返事に、アンナはようやく安心したように微笑むのだった。
***
アンナが荷造りを終えて部屋を出ると、扉が音を立てて、そっと閉じられた。
ルティーはその場に取り残されるように立ち尽くし、わずかに俯いた。
それは、安堵と、ぽっかり空いたような寂しさがないまぜになった表情だった。
トラヴァスは黙って彼女の様子を見つめていたが、ふいに声をかけた。
「ルティーも今のうちに、しっかり休んでおいてくれ」
抑えた低音は、いつもと変わらぬ無表情な口調だったが、どこか、その響きは優しかった。
「……はい」
ルティーは姿勢を正して小さく答えたが、その声にはわずかな揺れがあった。
静かに胸に手をあて、俯いたまま、そっと呟くように思う。
(私を心配したというより、アンナ様を無理にでも休ませるために、ああ言ったのよね。でも──もしかして)
その低い声音を思い返す。無機質でも冷たくもなく、奥底にわずかな柔らかさを秘めていた。
(私のこと、少しだけ気にかけてくれた──?)
その可能性に、胸の奥がふわりと温かくなる。
いつも無表情で、気持ちが読めないトラヴァスだけれど、あの言葉には思いやりが含まれていた気がして──
ルティーはそっと笑みを浮かべた。




